| 煮え立った湯をいっぱいに張った大釜が石を組んだかまどの上に載せられている。善鬼はかまどをのぞき込み、薪を押し込んでさらに火勢を強めていった。鍋を中心に置いて四間四方に縄が張られ儀礼的な空間に仕立てていた。 淨智は大鍋の前に座り込み、一心に何事かを祈念している。修験者たちは、工事の手を止め、大群衆となって探湯の成り行きを見ていた。今朝になって工事の一時中止を言い渡され、その理由を知りたがっていた。浄智と広足が関係しているというぐらいは薄々聞かされていても、探湯が何を問うためかについての説明は為されていない。 小角は早くから工事現場に姿を見せており、傍らにナガと女鬼の姿があった。 「ナガよ、田乃人には気の毒なことをした。六人もの犠牲が出るとはこの儂も思いもせなんだ。」 小角は沈痛な面持ちで語った。 「たった一晩しかたってないのに、親父がいたことがすごく昔のことに思えてくるんだ。親父の夢を見たよ。夢の中では、顔も姿も全然違うのになぜかそれが親父だと分かるんだ。これまでも、やっぱり俺に何かを教えてくれていた。不思議なことに、今の方が親父を近くに感じる。」 ナガは楽しい思い出のように話した。 「すまぬな、ナガ。儂はそれでも、やらねばならぬ。」 沸騰した湯が吹きこぼれ、薪の上に落ちて音を立てた。淨智は立ち上がり、横で見つめる善鬼に軽く頷いた。無言のまま着物の袖を肩までたくし上げ、釜に歩み寄ってから、大声で探湯の目的を告げた。 「我らの行う工事は山の神の意志に反するものである。即刻、工事を中止し、山を復旧するべきである。」 修験者たちはどよめいた。儀式の意味がやっと分かった。それは重要な意味を持っていた。自分たちが行ってきた行為の否定であり、小角に対する反逆でもあった。 「血迷ったか、淨智。」 「世迷い言をぬかすな。」 特に気性の荒い数人の修験者が淨智に近づいていった。すぐにこの儀式をやめさせて、淨智を叩き出すつもりなのだ。 淨智はひるまず、えいっ、というかけ声とともに煮えたぎる湯の中に手を突っ込んだ。さらに、大釜の中に深く手を入れてゆく。淨智が、手首から肘までをゆるゆると差し込むのを見て、近づいていった修験者たちは顔色を失った。 「こやつ、平気でいる。」 淨智は神妙な顔つきで、熱湯から腕を引き上げ、その腕を、皆に見せた。 「見よ、神意である。」 淨智の腕は爛れていなかった。火膨れもできていない。あたりが水を打ったように静かになり、大釜がぐらぐら煮え立つ音だけが聞こえた。 「神意である。ここに工事の中止を宣言する。」 「待て。」 小角が、よく通る声で淨智を制した。小角は大鍋に歩み寄り、袖をまくり上げた。 「再び神意を問う。よく見ておれ。」 小角は大釜の前に立って、言った。 「われらの工事は神霊の意志に従うものである。工事は続行し、手際よく仕上げねばならぬ。」 小角は淨智と同じように熱湯に腕を差し入れ、さらに釜の底を探った。周囲の緊張感は極度に高まった。善鬼は釜の脇に立ち、小角の手がたしかに熱湯の中にあるのを冷静に見ていた。 小角は手を引き上げた。 「儂の腕を見よ。火膨れなど出来ておらん。」 小角は腕をつきだして皆に見せた。ナガと妙鬼はほっと息をついた。静まり返っていた修験者たちも張りつめていた緊張がとけていった。淨智は跪いて小角を見上げ、教えを請うた。 「神意はどこにあるのです。」 「強く求めるところに神意がある。ただし、あかき、きよき、求めでなければならぬ。」 「一言主神の意志はいずれの立場に立つのですか。」 「我らが一心に願う方じゃ。よいか浄智、神とは人を守るために初めからあるものではない。森羅万象の中の特別な気配を指し、まず、それを神と名付けて我らのものとする。そして我らの一途な想いによって練り上げてゆくものなのじゃ。我らがいなくなれば一言主神も龍神菩薩も姿を顕わすことはない。草や木が陽に向かって伸び、鳥や虫を誘って花を咲かせるのと同じことじゃ。」 淨智は豁然と悟り、その頭の片隅で広足を思った。 明け方、山を下りた広足は、葛城山の麓にある自分の庵に戻った。これから都の刑部省に出向き、訴えを起こすつもりである。また、二度とこの庵にも戻らぬつもりでいた。 広足は身支度を整え、庵の内部を片づけた。水浴をして体の垢を落とし、衣服を着替え髪にも櫛を入れた。訴えが取り上げられたあとは、都に住み、その後の成り行きを見続けることに決めている。住み慣れた庵を後にするとき、広足は山を振り返らなかった。身支度を整えながら、自らを冷え冷えとした決心に導いたのである。 茅の茂る小道を歩いていると、隣りの丘を、一組の男女が仲良く歩いているのが見えた。しかし、広足は遠目にも男女の異常さを見抜いた。美しい女の額にかすかな角の影が見え、若い男の額からは淡い霊光が漏れている。 「近頃、妙なものが出歩くものだな。」 広足は自分自身の言葉に苦笑した。広足もまた奇妙な存在である。 広足は、楽しそうに歩いている不思議な男女を見て、やりきれぬ想いが湧き起こった。 「昨日までは俺もそれなりに楽しかったのだ。」 山での修行は苦しくもあったが、そのさわやかさは何物にもかえがたい。 「ええい、女々しいぞ広足。」 広足は自分自身に活を入れ、茅の小道を下った。 夏草の茂る街道に入り、何気なく街道脇の役人詰め所を覗くと、青白い顔をした捕吏と役人が土間の上にしゃがみ込んでいるのが見えた。 「腹具合でも悪いのか。」 広足はうずくまったままの役人に尋ねた。役人はどんよりした目で広足を見、何も言わずに自身の股を見た。そこには汚らしいしみが出来ていた。広足は彼らがある種の淫靡な術にかかっていることを知った。 「おまえたちは術にかかっているようだ。望むなら、その術を解いてやるが、どうだ。」 力なくうなだれた者たちが、地獄に仏を見る顔つきを見せた。 「お願い申す。この苦しみから救ってくれるのなら何でもします。」 絞り出すような声で広足に訴えたのは、国見連虫麻呂だった。這うように広足に近づいて広足の袴の裾をつかんだ。 広足は懐の独鈷を取り出した。鍛鉄製の独鈷は呪文とともに高く振り上げられ、裂帛の気合いとともに虫麻呂の頭に向かって振り下ろされた。 虫麻呂は、地面にたたきつけられた瓜のように頭が砕けたと感じた。 が、独鈷は虫麻呂の頭上すれすれで静止していた。これは一種のショック療法である、激しい気合いで相手を打ち、迷妄を打ち砕く。 「どうだ。」 虫麻呂はぺたぺたと自分の頭を触った。絞り上げるような股間の痛みが消えた。 「おお、治った。」 虫麻呂の様子を見ていた捕吏たちは、我も我もと這いずりながら広足に近寄った。 広足は次々に独鈷を振り下ろしていった、なかには少し手元が狂って頭から血が噴き出すものもいたが、誰も恨みごとは言わなかった。 「つらかったようだな。」 「もう、死んだ方がましだと思いました。申し遅れたが、刑部省の国見連虫麻呂と申します。」 「物部連広足。」 「おお、物部塩古連の。妻も物部の系譜にあります。奇遇ですな。いかに礼を申し上げればよいか。」 虫麻呂は術を解いて貰ったことがよほど嬉しかったと見えて、広足を別室に案内した。広足は目に見えない糸で強く引っ張られているのを感じた。これも何かの巡り合せと思った。 「刑部省の役人であるといわれたな。」 「勤めて二十年になります。」 「それは大したものだ。ひとつ手柄を上げてみないか。千人の手下を持つ謀反人を捕らえたとしたら、たいそう出世できると思うがね。」 虫麻呂は千人の手下と聞いて及び腰になった。虫麻呂が自由に出動要請できる人数はせいぜい百人にかぎられる。 「失敗することはない。相手は役小角様。そして私は弟子のひとりだ。」 役小角の名を聞いて、虫麻呂の心に小さな火がともった。 「おいぼれの小角めが相手ですか。」 広足は虫麻呂が小角を愚弄するのが気に入らなかった。目にもとまらぬ速さで手を伸ばし、虫麻呂の首をつかんだ。そのまま捻れば首の骨が外れる。 「失礼は許さんぞ。今でも師であることに変わりはない。ただ、私情を捨て裏切り者の汚名を着ることに決めたのだ。」 虫麻呂は、広足の性情をはかりかねた。苦し紛れに、何とか頷いて見せる。 「すまん。少しばかり気が立っている。」 広足は虫麻呂の首を放した。虫麻呂に広足への恐怖と憎悪が植え付けられた。この役人の心の中はそうした感情が生育しやすくできている。虫麻呂は首をさすりながら、上目遣いに広足をみた。 虫麻呂は当麻寺での修験者たちの大集会を目撃してから、かれらについての情報を集めていた。虫麻呂が考えていたのは妖惑の罪についての立件だった。虫麻呂はこれについての証拠固めを行い、何かの機会があれば葛城にある小角の道場に出向いて口止め料をせしめるつもりでいたのである。 広足は、虫麻呂に腹黒いものを感じた。 「では、証人として刑部省まで出頭していただく。あとは私が手を回します。」 虫麻呂は、事務的な口調で広足に告げた。 半月が過ぎた。 広足は歯がみしながら八省院の門前を行き来していた。 虫麻呂は、先に自分一人で本省の役人と打ち合わせをしてくると言い残し、朝堂の中に入っていった。 かなりの時間が経過していた。 広足は自分も虫麻呂に同行しなかったことを後悔した。虫麻呂が刑部省に小角に関する報告書を提出してから半月が経過し、やっと刑部省からの呼び出しがあった。広足は証人として虫麻呂とともに出頭し、朝廷の強制力をもって水越峠の工事を差し止めにするつもりだった。広足は、もっと早く手続きが進むはずだと考えていたが、大きくあてが外れた。 虫麻呂のような者と組むのではなかった、広足の後悔はその点に集中していた。自分が直接刑部省に出向いて手続きを行っていれば、こんなに時間はかからなかったはずなのだ。偶然、虫麻呂と出会ったときに、渡りに船とばかりに小角の一件を話してしまったことが、自分でしたことでありながら不思議に思えた。 長く待たされた後、朝堂の門から虫麻呂が出てきて手招きをするのが見えた。 「時間がかかってしまい、申し訳ない。」 虫麻呂は、心のこもっていない口調でわびた。 「私についてきてください。証拠調べをするそうです。」 広足は朝堂の一角にある、狭い部屋に案内された。 「私は、これで帰ります。」 虫麻呂はそう言って先に帰ってしまった。広足は虫麻呂の慇懃な口調に腹が立った。 部屋の中には、ひどく高齢の役人が席について広足を待っていた。役人は、ぼそぼそと語った。 「役小角の行状につき国見連虫麻呂より訴えがありました。これより、この件についての証拠調べを始めます。」 役人は広足の名前を何度も読み間違えた、というよりも高齢のために目が薄くなっており、机の上の書類の文字が見えていないのだ。広足は暗い穴に落ちていくように感じた。 広足は、役人の読み上げているはずの書類を自分にも読ませてくれるように頼んだ。 「規則ですからな。私が読み上げることになっておる。」 見えていないものが、読めるものか。広足はそう考えたが、役人は、かなりの長文を語り始めた。聞き取りにくく、非常にゆっくりだが、役人の話した内容は広足が虫麻呂に告げたものだった。おそらくこの老人は若い頃、かなりの記憶力を持っていたのだろう。そのいくらかを今も維持している人物だった。 「以上、相違ありませんな。」 役人は広足に念を押した。広足が確認しておきたい点は一つだった。 「謀反の疑いあり。この点についてくれぐれも調査をお願いしたい。」 はて、妖惑の罪についても何かあったような気がする。役人は記憶をたぐり、机の書面を眺めた。ぼやけた文字は謀反と書いてあるような気がした。 「左様。」 このように、広足の証拠調べは終わった。何もかもが不本意だった。どこか、しっくりこないところがあるのだ。 広足の勘は正しかった。虫麻呂は小角に対して百姓妖惑の罪により、先に訴えをおこしていた。広足はその事実を知らされていなかった、完全に虫麻呂に利用されていたのである。 もしも、広足に応対した役人が本当に書類を読み上げていたら、虫麻呂による訴えについて言及していたことだろう。あるいは、もう少し融通がきけば広足が書類に目を通すとともできたはずである。これは広足の不運と虫麻呂の計略が招いた運命の落とし穴だった。 妖惑というのは訴え次第ではどのようにでもとれる。占いが外れた場合に怒るか、笑って済ませるかを分けるのは、多くの場合有償か無償かによって決まる。小角は相談相手に謝礼を要求することはなかったが、熱心な信者は好んで金品を捧げた。悪く訴えれば、有罪になる可能性はあった。 虫麻呂は、広足の訴えによって、自分のおこした訴えを確実なものにしようと考えた。山伏を取り締まりたいとする朝廷の意向を利用し、突然に登場した広足を利用したのである。広足こそが虫麻呂にとっての渡りに船だった。 広足が謀反の罪にこだわったのは、謀反の事実は調査すれば比較的明瞭に無実が証明できるからである。証人は広足一人であり、広足はさらにその証言を覆すつもりでいた。 広足は危険な策士となり、すでに策中に落下しつつある。 広足は都大路に立ちつくした。 「山の神よ、私は正しいことを行っているのだろうか。」 広足の問いかけに答える者はどこにもいなかった。心の闇が広足を包み、出口が見えなくなった。 |