ナガは、はじめて絹の着物に袖を通した。

「似合うかい、おれはこんな上等の着物を着たことがないんだ。」

 ナガはシズメに手伝ってもらいながら水色の袴を付けた。

「見栄えがします。」

 シズメは少し離れてナガの姿を見ながら言った。確かに、上等の着物に身を包んだナガの姿は凛々しかった。開け放った引き戸から差し込んだ朝日が強い陰影を与えてナガの姿をいっそう引き立てている。絹の服は平民が身につけてはならないことになっていたが、今のナガには権力者の保身のために機能する律令は全く意味を持っていなかった。何者にも屈しない気概が頭をもたげてきている。

「ナガ、よく似合うよ。」

 妙鬼が衣に袴をつけてあらわれた。衣には豪華な錦が織り込まれている。

「これ、きれいだろ。」

 妙鬼はナガの前でくるっと回って見せた。

「うん、とても綺麗だ。でもおれの家に行くときには、もっと地味なのにしてくれないか。みんな、びっくりしてしまうよ。」  

 妙鬼の顔が曇った。

「この姿ではだめなのか。」

 妙鬼は、白い指先で錦の端を摘み、非常に残念そうな表情になった。

「おまえのために用意したのにさあ。何かの時にと思って大事にとってあったんだ。」

 女鬼とナガのやりとりを黙って聞いていたシズメがナガに向き直った。

「ナガ様、それは身勝手というものでございます。李隗さまのお気持ちを察してあげなされ。それ、あのように、いじらしいではありませんか。李隗さまの話によれば、あなた様は、たいへんな知恵者であるそうな。そのような方が女の気持ちをわからぬでは通りませんぞ。」

 老女は、ナガに愚痴めいたことを話し始めた。女鬼は、着物の袖をもじもじさせながら、老女の話を聞かぬふりをしていた。

「李隗さまはとてもお美しい、やはり女は着飾りたいものでございます。そのようなことをおわかりにならぬはずはない。知って知らぬふりをするのは、卑怯というもの、、、。」

 ナガは折れた。

「わかったよ。ばあさんの言うとおりにする。」

 女鬼の顔がぱっと明るくなった。

「いいんだね。これを着て歩きたかったんだ。」

 とっておきの服というものは、ただ都を歩き回っても面白くないらしい。

 ナガは、かつて受けた儀式を思い出した。眠っているときでなくても、不思議な記憶が蘇ってくるようになった。それを女鬼に話して聞かせた。

「俺は綺麗な羽根飾りをつけて、体中に赤や黄色の絵の具で魔除けの模様をかいた。村中から祝福され、たいへん誇らしい気分になったよ。ところがその後が、死ぬほどつらかった。村の長老から一本の短剣を手渡され、荒野へ行け、と言われた。それが成人の儀式なんだ。次の新月の日までまる一月、たった一人で原野に寝起きして自分のトーテムを見つけなければならない。あんまり腹が減った時には、虫を捕まえて食ったこともあった。半月ほど経って、コヨーテが執拗に自分の後を付け始めたときには、いやな予感がした。俺は歩く気力もないほどに消耗していた。綺麗だった羽根飾りはぼろぼろになり、俺はまもなくあの獣の餌食になるだろうと考えた。その瞬間におれは死線を越えた。」

 老女は、怪訝な顔をした。何を言っているのかわからないようだ。

「俺は、与えられた条件の中で最善の方法を考えようとした。コヨーテに対する嫌悪も恐怖も消え去った。身体はもう疲れ切っていたし、これ以上歩き続けることは無理だと思った。俺は、最後の力を振り絞って罠を作った。コヨーテを罠にかけて食おうと考えたんだ。ところがそのとき、どこからか大きな鹿が現れて、罠にかかった。鹿は力が強くて、俺の罠を引きちぎって逃げた。鹿を仕留めたのは、俺を狙っていたコヨーテだった。」

「へーえ、それからどうなったんだ?それから、コヨーテというのはどんなやつなんだ?」

 女鬼は、続きを聞きたかった。

「ああ、コヨーテというのは狼だよ、緑色の目と茶色の毛並みを持っている。俺は短剣を構えて鹿に近づいた。コヨーテの奴もよっぽど腹が減っていたらしくて、もう夢中で鹿の腹に鼻面をつっこんで食っていた。俺は短剣で鹿の後足を切り取った。奴は俺を横目で見ていたが、襲いかかってはこなかった。鹿が捕れたのは俺のおかげだとわかっていたんだ。俺はコヨーテをトーテムに選んだ。」

 シズメはナガの話についていけないらしくて、部屋の外に出ていってしまった。 

「遠い国の話だね。」

「ああ、ずっと遠い。」

「昔の話かい。」

「いや、そうとも限らないぞ。先の時代かも知れない。」

「ふうん。」

 ナガは、今生きている自分について思いを巡らせた。しかし、ことさらに探ろうとするとかえって何も思い浮かばなかった。

 何かのきっかけがあるごとに、過去世か来世かの記憶が蘇ってくる。既にナガは普通の少年とはいえない。たぶん元の生活には戻れないと考えている。そこに一点の寂しさがあるものの、妙鬼との出会いが、その心の隙間を埋めている。

 ただ、ナガはこれから何を為すかという基本方針を持っていない。都で物売りをするというのも、何もしないよりはましと言うぐらいで魅力的なことには思えなかった。

「なあ、妙鬼。それとも李隗と呼んだ方がいいか。俺はこれから何をしたらいいのかな。わからなくなってしまったよ。」

 女鬼は、遠い目をして空をみているナガの姿を見つめた。

「おまえが、急にかしこくなってまだ何日も経ってない。ゆっくり考えればいいじゃないか。」

 葛城に出かける準備が整った。

 妙鬼の家の前には、五人もの奴婢がそれぞれ荷物を担いでいた。

「シズメ、手配はよろしいな。」

 女鬼はすました声で老女に言った。妙鬼は今やどこから見ても美形の貴人である。ナガは、このたいそうな行列に面食らったが面白そうなので文句は言わなかった。

「万全でございます。では行ってらっしゃいませ。」

 老女の笑顔に見送られて、一行は葛城を目指してしずしずと歩き始めた。

「この従者たちも、おまえが面倒を見てるのか。」

 ナガは、女鬼に尋ねた。

「そうだよ、家を建てて住まわせている。みんな、シズメが買ってきたんだ。あたしはみんなを品物みたいには扱わない、だからみんな生まれついての家来みたいにつくしてくれるよ。」

「大した女主人だ。」

 一行は夏草の茂る街道に入った。

 都から葛城は遠くない。昼前には葛城の麓にある街道脇の役人の詰所にさしかかった。「待たれよ。」

 詰め所から、刑部省の役人が出てきて声をかけた。その役人の後ろからごろつきに見違えそうな数人の捕吏が続く。

「姓名を明かし、行き先を申されよ。」

「唐国連山乃部李隗様、葛城茅野郷まで。」

 役人の名は国見連虫麻呂という。小ぎれいな着物をつけた従者たちと、身分のありそうな若者、たいそうな美女の一行は虫麻呂の興味を刺激した。虫麻呂は嫌みな笑みを浮かべた。この手の貴族はちょっと脅せば朝廷から支給される禄以上の儲けになるというのがその理由だ。

「いやな顔、あれで役人が務まるのかねえ。」

 妙鬼が遠慮のない声で言った。先頭にいた奴婢が虫麻呂に心付けを手渡し、通り過ぎようとすると、虫麻呂は大声で叫んだ。

「刑部省の国見連虫麻呂に賄を手渡し、急いで通り過ぎようとするのはまったく怪しからん。近頃、不穏な動きがあると聞くが、まさか御主らその仲間ではあるまいな。」

 従者は、けっしてそのような怪しいものではありません、と必死で弁解するが、これは虫麻呂にとって好都合なのだ。

「では、証拠を見せよ。御主らの持ち物、全てを見せていただく。」

 虫麻呂はこの手で品物を取り上げる。朝廷は細々した点にまで禁制を強いていた。例えば、位階によって所持できる錦の柄まで定まっていた。そのような違反はどこにでもある。むしろ、禁制自体が不合理の固まりだった。

 従者たちは女鬼の方を見た。この場で荷物を開き、役人に見せても良いかと目で尋ねている。

「汚い手で触れてはならぬ。」

 妙鬼が虫麻呂に命じた。

 虫麻呂は一瞬たじろいだ。一行が刑部省に影響力のある豪族であるかどうか、について考える。この性悪で小心な役人はすばやく相手の姓名を思い出した。最初に姓名を尋ねたとき、山乃部季隗と奴婢が言った、そんな名は聞いたことがない、この点を確認してから、虫麻呂の中でむらむらと黒い怒りが湧き起こってきた。

「怪しからん。刑部省の役人の手を汚いだと。」

 虫麻呂の怒りはすぐにごろつきの捕吏に伝染した。野盗と何ら変わるところのない捕吏たちが色めき立つ。

 ナガは、懐の蕨手刀をそっとつかんだ。ナガの中には様々な人生を送った記憶が息づいている。剣を振るう戦いに明け暮れた記憶も生きているのだ。役人の名を借りたごろつきどもを血祭りに上げてやろう、と考えるうち、ナガの中で短剣を相手の喉元に、さくりと差し込む手応えがありありと蘇ってきた。ナガは正確に間合いをはかった。あの役人の喉を掻き切る、次いで右の捕吏を狙う、このようにナガは冷静に計算しはじめた。

「ナガ、待ちな。せっかくの服が汚れる。」

 妙鬼はナガを押しとどめ、役人と捕吏たちに、ふっと息を吹きかけた。

 妙鬼の吹きかけた息は、ゆらゆらと漂って虫麻呂の鼻腔に吸い込まれ、捕吏たちの肺の中にしみ込んでいった。

「懲らしめてやるよ。」

 虫麻呂たちの視線は宙を漂った。

「われらを忘れよ。」

 妙鬼がうたうように言った。

 強力な暗示効果が彼らを支配した。

 妙鬼は街道脇の草を指差した。

「それ、あそこに女どもがいる。おまえたちを誘っている。」

 虫麻呂たちの視線は、街道脇の夏草に注がれた。そこには、裸の女たちが何人も寝そべっている。

 虫麻呂たちはマタタビを与えられた雄猫のように草の上を転がり続けた。

「さあ、阿呆どもは放っておいて、われらは先を急ごう。」

 妙鬼の言葉で、ナガは我に返った。妙鬼は全員にめくらましをかけていた。

 悪党どもは絶頂を迎える時の表情で草の上に転がっている。

「懲らしめるどころか、奴らは喜んでいるじゃないか。」

 女鬼はちらっと牙を見せて嗤った。ナガは、はじめて妙鬼の牙を見た。

「あたしを怒らせた者は、ただでは済まない。」

 ナガは、妙鬼の言葉の意味を理解した。

 哀れな悪党たちは術の効果が消えるまで、とめどなく放出し続ける。やがてそれは言葉に尽くせない苦痛に変わってゆくのだ。

 ナガは男として少し気の毒な気がした。

 茅の茂った丘を越えると、板造りの家が見えた。ほんの数日ぶりなのだが、ナガには何年も家を空けていたような、不思議な懐かしさを覚えた。落雷のあった柿の木が青々と茂っていた。

「あれっ、俺たちを待っていたみたいだな。前もって知らせておいたのかい。」

 ナガは、戸口に母やミナ、親類たちの姿を見つけた。ナガの帰りを待ち受けている。

「せっかくここまできて留守だったら、何にもなるまい。」

 前もって使いの者をよこしてあったのだ。 

「手回しがいいな。」

 女鬼はふふんと笑って横を向いてしまった。

 ミナが駆けてきて、ナガに抱きついた。

「おまえは、本当にナガか。」

「ナガだよ。よく見てくれ。」

「今朝、都から使いが来ておまえのことを聞いた。信じられなかった。」

 ミナはナガの変貌ぶりにとまどいながらも、再会を喜んだ。

「さあ、こちらにどうぞ」と、ミナは妙鬼を家の中に案内した。 

「かあちゃん。帰ってきたぜ。」

 タニノメは放心したような表情だったが、ナガの声を聞いて堰を切ったように話し始めた。

「本当によかった。おまえが逃げてから村中で山を捜したんだよ。タノトはすぐに村の衆に声をかけた。里では見かけた者がいないし、もし、おまえが山で死んだなら、死体が見つかるはずだと言うんだ。でも何も見つからなかった。山犬に喰われたと言う人もいたけど、私は、おまえは生きていると思っていた。急なことだから、私も驚いたよ。まるで天女のような人じゃないか。おまえも、見違えるほどに立派になった。足も治ったそうだし、朝からもう大騒ぎだ。十四で婿入りは早い気もするが、みんな、とても喜んでいる。」

 少々誤解が生じている。

「なんか変だが、まあ、いいや。」

 ナガは、この流れにあえて逆らわないことにした。おそらくは、山乃部李隗は鬼なんだぜ、などと言うよりは、よほどまともだった。

「親父はどこだ。」

 ナガはタノトがいないことに気が付いた。

「水越にいるよ。茅野からは男手が交代で手伝いに行く。賀茂郷などは総出で小角様の手伝いに行っている。山を削って岩の橋をかけているそうな。」

 ナガは、小角が水越で大規模な工事を行っていることを初めて知った。賀茂氏は小角の一族である。

「何のためにそんなことをしてるんだ。」

「さあ、私らにはよく分からないよ。」

 ナガは小角に会ってみようと思った。これまでのようなぼんやりした頭には浮かんでくることのない明確な目的意識が生まれつつあった。

 ナガの家の周りには、やがて見物の人垣が出来た。死んだはずのナガが都の貴人と一緒に帰ってきた。これは村人にとって心底、意外な出来事だった。

「荷物を開きなさい。」

 妙鬼が家から出てきて従者たちに命ずると、人垣からため息が漏れた。まず、都の貴人はあまりにも美しかった。さらに、従者たちが開く荷物からは、絹綿や組紐の帯、布地が取り出された。

「お近づきのしるしに、みなさまにお分けする。」

 女鬼、山乃部李隗の言葉に村の衆はどよめいた。

「歌を詠む。」

 歌の好きな村人の一人が拍子をつけ、声高く李隗をたたえる歌を詠んだ。

「たまひかる みやこのおとめ はなかおる そがてりいます はなはちす にほふがごとく いまさかりなり」

 この集会は、次第に酒宴に変わりつつあった。

「こんな大盤振る舞いをしていいのかい。」

 ナガは女鬼の耳元に口を寄せて尋ねた。

「いいんだ、今日はとても楽しい。」   

 女鬼はにこにこしている。

「水越峠におやじが行っている。俺は小角様にも会ってみたいんだ。」

「小角なんかいつでも会わせてやるよ。あたしは今とても楽しいんだ。つき合っておくれ。」

「そうだな。」

 今しかできないこともある。ナガは、淡く楽しい少年の日々が終わってしまうのを感じていた。

 

 

 

 

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