| ナガは海に潜っていた。十尋ばかり潜ると一抱えもある大貝があった。ナガはナイフを握りしめて、半開きになった大貝に手を突っ込み、貝の丈夫な筋肉を裂いた。大貝は青い泥を吐き、ナガは粘り着いてくる泥を顔をそむけて避けた。そのまま、もう片方の手を貝の中に差し入れる。からみつく内蔵の間に目的のものはあった。クルミほどもある大きな真珠。それを掴み出して、手の中で転がすうち白く光る申し分のない真珠であることが分かった。ついに真珠取りの間で語り継がれる幻の真珠を手に入れた、そう思ったとき、事故が起こった。貝は殻を閉じ、中に残ったナガの腕を挟んだのだ。 ナガは青い世界にとらえられた。海の底に張り付いたまま動けない、水の圧力がナガを締め付け急速に体力を奪った。明るく光る海面が次第に暗くなっていく。ナガは死が目前に迫ってきたことを感じた。まだ死にたくない、そう思った途端、深刻な恐怖が襲ってきた。 ナガは目を開いた。 女が、ナガの顔をのぞき込んでいる。 「妙鬼か、、、」 女鬼は、ほっとした様子でナガのそばに座った。 「悪い夢を見ていたのかい。」 ナガは、汗だくになっていた。 「夢とは思えない。」 「気分はどうだ。ひどく、うなされていた。」 ナガは、やっと、現実に戻ったと思った。 「悪くないが、体中が痛い。たくさん夢を見たよ。恐怖の連続のような夢だった。おれには怖いという感情がなくなったように思ったが、そうでもないらしい。」 ナガは周りを見回した。 柱があり、壁があり上には太い梁が見えた、どう見てもきちんとした家だった。また、妙鬼は額の角がなくなっており、葡萄染めの上等な着物をつけていた。 よその家に入り込んだ気分だ。 「おれは、まだ夢を見ているのかな。ここはどこだ。」 女鬼はくすくす笑った。 「鬼は、山の洞穴に住んでいる、と思っているのか。ここは都だよ。あたしの家だ。」 ナガは、口を開けたままになった。ナガが鬼に対して持っていたイメージは、急速に風化した。 「どんな夢を見たのか、聞きたい。」 妙鬼は夢の内容について知りたがった。ナガは、できるだけ詳しく話した。 夢は極めて明瞭に思い出すことができ、話すうち、夢で見た以上のことを、活き活きと思い出してきた。 「深い海の底で、一抱えもある大貝を見つけた。おれはナイフで貝を裂いた。」 「ないふ?」 「刀子みたいなものだ。おれは胡桃大の真珠を手に入れた。しかし、まったく迂闊だったな。おれの手の中にあった真珠、あのでかい真珠は、どうなったのかな。」 「夢だったんだろう。」 ナガは手の平を、玉をつかむようなかたちに丸めてみた。なめらかな丸い玉の感触がありありと思い起こされた。 「夢じゃない、別の世に生きていた時の記憶だよ。」 「へえ。たいしたものだな。」 「もう終わったことだけどね。どこかの海の底に、かつて俺であった骨が真珠をつかんだまま眠っているかもしれない。」 ナガは、急に空腹を覚えた。 「腹が減った。何か食べさせてくれないか。」 女鬼が手をたたくと、まもなく老女が現れた。老女はシズメと名乗った。 「何でもお申し付け下さい。」 老女は、丁寧な言葉遣いと素振りで、ナガを手厚くもてなした。老女は手早く湯漬けを作り、干し魚を焼いて運んでくれた。 ナガは老女のしわだらけの横顔を見ながら尋ねた。 「おばあさんは、いつ頃から妙鬼と知り合いなんだい。」 シズメは、妙鬼と聞いて、むっとした表情になった。 「妙鬼などと、そのような呼び名はここではおやめ下さいますように。季隗様でございます。私が季隗さまにお仕えして五十年になります。」 ナガは、意外なことを言われて驚き、側にいる妙鬼を見た。 「あたしがシズメを育てたんだよ。」 ナガは、自分の知らない世間をのぞき見た気がした。 「季隗というのは、あたしの昔の呼び名だ。シズメは小角が嫌いだから、小角があたしに付けた名前がいやなんだよ。」 「小角めは、季隗様をさんざ使い回したあげく、今では怪しげな山伏どもの大頭目に収まっております。持統上皇をたらし込み、女官を次々にまるめ込んで、この私にも、若い頃には何度色目を使ってきたことか。朝廷では謀反の噂も広まっております。」 老女は、実に憎々しげに言い放った。 「シズメ、もういいではないか。昔の話だ。小角も、今ではずいぶんと悟った様子だ。」 女鬼に、たしなめられて老女は奥に下がった。 季隗とは、明らかに唐の名である。 「この魚はうまいな。湯漬けも、もう一杯、貰っていいかな。いくら食べても腹が膨れないんだ。」 「四日も寝ていたからな。」 「えっ。おれはそんなに長い間、眠り続けていたのか。」 女鬼は、おかわりの用意をしに部屋を出た。ナガは、鈍い痛みの残る足を引き寄せ、ふらつきながらも立ち上がった。壁に手をつけば何とか歩けた。 戸を開けると、都の街並みが見えた。夏の夕陽に照らされた街並みは美しかった。 朝堂や寺の伽藍が赤く染まり、金堂の屋根や遠くにそびえる塔が見える。貴族や庶民の家並の間に、諸氏の紀寺や大官大寺が見える。完成したばかりの本薬師寺の伽藍がとりわけ目を引いた。 藤原京は唐の都にならって碁盤目のように区分けされている。東西を中つ道、下つ道で区画し、南北は山田道と横大路で線引きしてある。 ナガの立つ場所から、整然とならぶ町並みのかなたに北の天香久山と西の耳成山が見えた。都には何度も来たことあるので、見覚えのある寺の屋根と山の位置から、だいたい自分が宮都のどこにいるのかがわかった。 都から葛城は遠くない。歩いても半日あれば十分往復できるほどだ。ナガは、明日には家に帰ってみようと考えた。いつまでも妙鬼に世話になっているわけにもいくまい、そう考えて何気なく振り返ると、そこに妙鬼が立っていた。 「ナガ、ここにいておくれ。」 妙鬼は、訴えるような眼差しでそう言った。 ナガはどぎまぎしてしまった。 「そんな目で見るなよ。おれがここにいると何かと雑徭がかかるし、おれにも遠慮という気持ちはあるんだ。」 女鬼は、ちょっと安心したように言った。 「そんなことなら、心配いらない。あたしは自分の力で、いくらでも稼げる。山に入れば、銀や鉛を集めたり、猪、鹿、山鳥を捕らえてくる、海に行けば、宝貝でも珊瑚でも好きなだけ取ってくる。あたしは長者だよ。蔵には宝がつまっている。」 「そうか、術はいろいろと役に立つもんだなあ。しかし、あの婆さんにも悪いだろう。」 「シズメのことは気にするな、それに、シズメもおまえを気に入っている。昔の小角より、ましだと言っていた。」 「しかしなあ、家の者も心配していると思うし、、、。」 「では、あたしが一緒に行って、都で暮らすことになりました、と言ってやる。」 ナガは、それもまずいだろう、と思った。 妙鬼は、ナガがぐずぐず、むにゃむにゃと、はっきりした態度をとらないので次第にいらだってきた。 ふつう、怒った女鬼はこわい。なにしろ鬼だから、裸で猛獣の群の中に立っているような危険性をはらんでいる。だが、女鬼はナガを好いていた。 ナガは、自分をまっすぐに見つめる美女の目に、涙が盛り上がってきて、やがてはらりと落ちたのを目にした。これは、なかなかにこたえた。 「わかった、それじゃあ、お言葉に甘えてしばらく厄介になるよ。遊んでいるわけにもいかないから、都で物売りでもやってみる。」 女鬼は急に嬉しそうな顔になった。 ナガは、女鬼が急に、にこにこするので涙に騙された気がした。 「俺のことを心配しているだろうから、明日にでも一度家に帰る。」 「いいよ。あたしも付いていってやる。」 「鬼の姿でなければいいさ。」 「おやすいご用だ。貴人の姿で行くことにしよう。」 「よーし、みんなを驚かせてやるぞ。」 ナガは少年の心に戻っていた。 その夜、都の空に怪しい霞がかかった。都大路を犬が落ち着きを失って駆け回り、無数の蛙が井戸の周りに貼りついたりした。しかし、都に住む者でその異常に気が付いたものは少なく、その後の事態を予測する者は全くいなかった。 すでに日は暮れているにも関わらず、水越峠の工事現場には、松明がともり、いまだ多くの行者たちがもっこを担ぎ、ちょうなを使って山の土を削っている。工事は予想以上に順調に進んでいた。近くの村から女たちが行者たちのために食事の炊き出しを申し出てきたり、ほかに村の男たちも協力を申し出た。これらは物部連広足が、小角のやろうとしている工事について説明をし、協力を求めたことによる。役行者の信望はそれだけ厚かった。 広足は、善鬼を捜したが、近くにはいない様子だった。そこに、にこやかな微笑みを浮かべた僧形の男がやってきた。 「やあ、ここでしたか。食事は取ったのですか。」 淨智はそう言いながら、懐から竹の皮の包みを取り出した。広足に差し出して、食べろ、と言う。 「遠慮なく頂きます。」 広足は、松明に照らされた赤土の上に座り込んだ。工事によって削り取られた山肌の土は、夜になると急速に湿気を含む。すでに、夜露が降りていた。 「広足殿、昨日、今日と義覚様を見ましたか。」 淨智は、竹の包みから握り飯をつまみ上げて食べている白皙の青年僧を好ましく思っている。率直に怒りをあらわす事が出来るのがうらやましくもある。 「そういえば、見かけませんね。また、会いたいとも思わない。私はあのお方は嫌いです。」 広足は、二つ目の握り飯をつまみ上げた。 「やはり、あなたも義覚様に会っていないのか。」 広足は、精神的に粘着質の部分が多かった。義覚とは顔をあわさない方が気が楽でいいと思っていた。会えば、また腹がたつ。 「広足殿、その顔からすると、まだ義覚様に腹を立てておいでか。人には、好き嫌いは付き物です。それはわかるが、人の良い部分を見つけるようにすれば、多少は見方が変わるかも知れませんよ。」 淨智の言っていることは、広足にもよくわかっていた。 「はい。」 「説教臭くなりましたな。」 浄智は何気なく横を向いた。そこに、闇の中を滑るように近づいてくる影があった。 影は柔らかい赤土の上に足跡を付けることなく、一歩足を踏み出すごとに数歩分を進むような奇妙な歩き方をしていた。笠をかぶり顔は見えない、土色の着物をまとった女の姿だった。しかし、断じて人ではあり得なかった。 「広足殿、妙なものが来ましたよ。」 女はまっすぐに浄智たちに向かって来る。 「面妖な。」 広足は独鈷を取り出し破邪の呪文を唱えかけた。 「お待ちなされ、何か訳がありそうだ。」 淨智は手をあげて広足を制し、女を見た。女は深く笠をかぶったままその顔を見せなかったが、粗末な服の下には血の通った、女の体が感じられた。 「何か我等に伝えたいことがあるのなら、言ってみられよ。」 淨智は穏やかな声で言った。 「このように荒れた山には、霊気を産むことは出来ぬ。」 女の声は涼やかだった。 「はて、妙なことを言う。われらは山に霊気を通すために働いている。山を荒らしているのではないぞ。」 女は、すうっと離れ始めた。山の奥に向かって滑るように進んで行く。 「淨智様、私はあの女を追います。」 広足は、淨智にそう言い残して女を追った。広足の足は速い。女を追う広足の姿は、すぐに山の闇に紛れて見えなくなった。しかし女の姿は、かすかな燐光を発し、かなり離れても目で追うことが出来た。 淨智は夜目が利かず、また広足のように、飛ぶように山道を走ることもできない。女を追いかけるだけの体力はなかった。 小さく、遠く見え続けていた女の姿も、山一つ、向こうに行ってからは見えなくなった。 ひょっとして、あれは山の神ではあるまいか、と淨智は思った。空を仰ぐと、かなりの数の星が見え、それらを背景に真っ暗な山がそびえている。浄智は都の方角を見た。所々に篝火がおかれてあるのが見える。浄智は、その火が深い闇に埋もれてしまいそうに感じた。工事が始まってすでに四日。小角が言っていたとおり、都には不浄な気配が色濃く立ちこめている。 広足は目にも足にも自信があった。月のない夜でも、星の明かりでたいていの物は見える。まして女の身体からは光が漏れ、それがなめくじのように跡を引いて残っている。広足は、その跡を追いさえすれば良かった。山道をふさぐ倒木を軽々と飛び越え、岩に足を取られることもない。尾根を越えると、やがて谷を流れる水の音が聞こえた。 はて、こんなところに谷があったか、と広足は思った。 あたりに、もやがかかり始め、濃厚な闇が広足を包んだ。女の影も通った跡も見えない。 広足は立ち止まった。この状態で走るのは危険だ。夜の山には慣れている。ときには、迷うこともある。しかし、自分のよく知った山で谷の位置を間違えるはずはないのだ。 おれは化かされたな、と広足は思った。広足は退魔の法をとることにした。 両手に印を結び、一心に祈念する。 広足の眉間に淡い光の輪が現れ、それは次第に全身を包んだ。周囲のもやが広足に感応し、かすかな光を帯びてくる。 やがて、ひたひたと素足で地面を歩く音が聞こえてきた。姿は見えないがそれは確実に広足に近づいている。もやの中からぼんやりした影が現れ、広足の目の前まで来てとまった。追っていた女だった。 「おまえは何者だ。魍魎のたぐいか。」 女は笠を深くかぶったまま、黙って着物の帯を解いた。地面に着物がはらりと落ちると、周囲のもやが夕暮れ時のような光りを発した。女の被っている笠は、依然その顔を隠していたが、首から肩、乳房からへそ、腰、太腿、どう見ても血の通ったおんなの身体だった。 しかも、とびきり美しい。形の良い乳房から柔らかそうな腹部、黒い茂みと見ているうちに広足は体中がざわざわするような欲情を覚えた。しかし、広足は慎重な男だ。 「おれを誑かすか。女怪。」 女は無言のまま、太腿を開いて立ち、腰をくねらせた。両手で乳房を持ち上げてみせる。 「誘うか。」 広足は女の笠に手を伸ばし、それを剥ぎ取ろうとした。ひょいとその手をかわし、女は後ろ向きになった。形の良い尻と、背中のくぼみが見えた。広足は片手を女の腰に回し、もう片方の手で袴をはずし、いきなり女の中に入った。そこは、すでに熱く潤っていた。広足と女は立ったまま交わった。後ろ向きの女の尻が吸い付くように広足に押し当てられ、くりくりと動き続ける。 広足は極限まで耐え、激しく放出した。 「ふう。おまえは、なかなかいい具合だったぞ。しかし、なぜ顔を見せないのだ。」 広足は、そそくさと袴を付けながら女に尋ねた。 女は裸のまま、笠をとり広足にその顔を見せた。 「おおっ。」 広足は、女の顔を見た。皮膚を剥ぎ取られた顔、血塗られたしゃれこうべであった。 広足は言葉を失った。 「我はイチゴンジンなり。」 女は鈴のような声で言った。 広足の色白の顔から血の気が引いた。 「おれは一言主神と交わったのか。」 広足は、何かとてつもなく大きな間違いをしでかした気分になった。修験者にとって山の神は、畏れ多く、犯しがたいものだ。 「山を切り苛むことは何も生み出さぬ。」 一言主神は、そう言ったまま次第に輪郭がぼやけ、広足の前から姿を消した。 「待ってくれ、、。私に、、何をせよとおっしゃるのか。」
広足は薄れていくもやに向かって叫んだ。 山の神の意志は明らかだった。 岩や土を削って山の霊気を統御しようとすることは、一言主神の意志に反する。当麻寺での大集会に現れた一言主神は、みすぼらしい姿だった。あのとき一言主神は、工事反対を唱えたかったのか。 「それならば小角様に、ひと言そう言えばよろしいではないか。工事はたちどころに中止となり、草木を傷つけたり山を損なうこともなかったのだ。」 広足は闇に向かって語りかけた。 「既に小角様は神霊の声に耳を傾けることがない、とおっしゃるのか。」 「工事を中止させることが私の使命なのか。」 山の神の心を知り、その意志に従うことが、皮肉にも山を去らねばならぬ結果になる。広足は小角に正面から対抗し、五百人を越える山法師を相手に意見を通す自信はなかった。広足は暗闇の中で途方にくれた。 |