| ナガは葛城山に逃げ込んだ。神の岩の前でしばらく鬼が現れるのを待ったが、再びその姿を見ることはなかった。現れそうな気配もない。こうなると自分で何とかするしかなかった。ナガは、自分の中にこれまでにはなかった別のものが芽生えていることを感じている。それを力と呼ぶなら、ひょっとしたら自分の中に芽生えた力だけで何とか出来るのではないかという気さえするのだ。 葛城山は不思議な霊気の漂う場所である。ナガはそれに誘われるように山の奥を目指した。清浄な霊気を体に蓄えることで、傷が少しでも癒えることを期待する気持ちもあった。日が暮れ、夜になると、ナガは急な山肌から大きく突き出した岩場で火をおこした。 夏の夜空には豪華に星が光っている。ナガは空腹を覚え、麻袋から芋と豆を取り出して火の近くに並べた。豆と芋を焼いて食べようとしている。 自分で体を癒やす方法を見つけたいとは思うものの、具体的にはまだ何も思いつかない。ナガは自分の体があとどれぐらい持つものかもわからなかった。しかし、あまり悲壮感はない。ナガは、自分が別の世界で二度ばかり死ぬときの様子を夢で見てしまった。それを夢と断言するには、あまりに生々しいものであった。しかも、別の世界に生きた時のおぼろげな記憶が蘇りつつあるのだ。ナガはすでに十四歳の少年ではなく、いくつかの生を生き抜いた複数の人格に融合しつつあった。 「焦っても、無意味だ。これまでのおれなら死ぬのが怖くてどうしようもなかっただろうが、今、おれの精神は限りなく自由だ。恐怖がどこにもなく、頭は限りなく冴えている。」 ナガは心からそう思った。 夏の夜風は心地よかった。蚊に悩まされるのではないかと心配していたのだが、風向きと場所が良かったのか痒い思いをせずに済みそうだ。 ナガは、岩場の焚き火の前にあぐらをかき、火を眺めながら、自分に起こった変化について思いを巡らせた。 知性が高まりつつあることは間違いない。知識量も増えている。新しい言語がナガの思考を表現する基盤になり、目に付くあらゆるものと元々ナガの中にあった概念に新しい名称を与えつつあった。それらが体系的に分類され、相互の関係を見つけることもそう遠くない時期に実現しそうだ。また、これまでもっとも問題のあった記憶力についても、例えば目で見たものは、あとで細部にわたって思い描くことが出来、耳で聞いたことも同様に再現することが出来た。 「おれは賢くなった、ある種の異能者になったのは間違いない。」 ナガは気負いなくそう思った。 ナガは、火の近くに並べてあった豆を、焼けたものから順番につまみ上げ、よくかんで食べた。 「よくかむと食物が消化液に触れる表面積が増える。また酵素を含んだ唾液がよく混ざるから、食べ物はよくかんだ方がいいのだ。」「なるほどなあ、これまでの俺は、ただ、がつがつと食っていただけだ。」 一つの事実から、思考はいくらでも膨れ上がっていった。ナガの新しい意識は自己確認を繰り返しながら次第に古いナガと一体化していった。ナガの精神はどこまでも高揚した。 ナガが一つの精神的な高みに達しようとするとき暗闇の中に、ぼうと光る影がいくつも現れた。周囲の空気がびりびりと震える。妙な現象だ、とナガは思った。 焚き火の光は周りのものを明るく照らし出しているのに、急に周囲の闇が深くなった気がする。 「どこを見てるんだい、こっちだよ。」 焚き火の炎に照らされて、具足をまとった美しい女が暗闇の中に立っていた。しかし、その場所は険しい山肌から突き出した岩の向こう側なのだ。 ナガはあまり驚かなかった。昼間、大きな鬼を見ていたせいもあるだろうが、今ならどんなことでもすんなり受けとめられる。 「そんなところで、浮いていないでこっちに来て座れよ。夏でも夜は冷える。」 ナガは、女を手招きした。 女は素直に火のそばにやってきた。ナガがこれまで見たこともないような美しい女だった。ただし額には二本の角がある。 「あたしが怖くないのか。」 女鬼はナガに尋ねた。 「おれには、今、怖いものが何もない。豆が焼けているが、食うか。もう少しで芋も焼ける。」 女鬼は、にやりと笑った。 「おまえを喰おうか。」 それでもナガには恐怖が湧いてこなかった。 「おれの左足なら、ただで喰わせてやる。あやうく切り落とされるところだったんだ。それが怖くて逃げてきたんだが、もう惜しくない。昨日、雷に打たれたばかりだから、まだあまり腐ってないと思うよ。この通り、よく動く。」 ナガは左足を動かして見せた。 女鬼は楽しそうに笑った。その笑顔は大輪の花が咲いたようにあでやかだった。 ナガも、なんだか嬉しくなってきて、つられて笑った。 「あたしは鬼だよ。」 「そうらしいね。」 女鬼はナガが大いに気に入ってしまった。 昔、小角もちょうどこんな風だったな、と懐かしさをもって思い出しながら、ナガのそばにあぐらをかいて座った。 「あたしは妙鬼と呼ばれている。」 「おれの名は、ナガ。」 「おまえは、子供みたいな姿だが、本当はずっと年寄りなんじゃないのか。」 ナガは意外なことを言われて、ふと考え込んだ。 「俺は十四だ。それもつい昨日までは、ちょっと足りないぐらいに純真な十四だったよ。ところが、雷に打たれて頭の中身がすっかり変わった。おれの頭を喰わずに残してくれたら、後でそのへんをじっくり考えてみるよ。」 ナガは首をひねりながら答えた。 「あはは、馬鹿だねえ。鬼は恐怖を食べるのさ。それも下等な鬼がね。あたしぐらい高等な存在になると、見込みのありそうな人間と遊ぶだけさ。」 「それじゃあ、これを食え。」 ナガは焼けた豆をいくつか手渡した。 女鬼はナガを見つめた。じっと見つめられて、ナガはどきどきした。 少年の恥じらいを見せながらも、ナガは、女鬼ににじり寄った。その唇を奪い、女鬼を抱くつもりだった。 妙鬼は、両手でナガの顔を柔らかく包み、花がこぼれるような微笑みをたたえて言った。 「いま、抱かれてやってもいいが、その体ではあたしと交わった途端に死んでしまうよ。鬼は鼻がきくんだよ、おまえには死肉の臭いがする。」 死肉の臭いと言われて、ナガは萎えてしまった。肩を落として、うつむいてしまう。 女鬼は、ナガがこんなに落ち込むとは思っていなかった。それはナガが自分を見ても驚かない剛の者、あるいは聖者のように達観した人物だと思っていたためだ。 「あたし、そんなに悪いことを言ったかい。」 「ああ、俺はやはり傷つきやすい十四歳だ、、、。」 そう言った端から、また違うことを言い出す。 「しかし、よく考えてみると、落ち込むほどのことでもないんだ。俺の心は何枚もの層になっている。子供のナガの下に、年寄りや戦士や王の意識まであるぞ。」 ナガは、ちょうど食べ頃に焼けた芋をつかんで食べ始めた。 「俺は、雷に打たれて賢くなった。そのかわり体が腐ってきた。これは、代償だな。天の与えた取引なんだろうさ。」 妙鬼はナガを見つめ続けた。ナガは芋を頬ばりながら少し間をおいて言った。 「おまえがここに来たとき、おれは精神的な、ある種の頂点に達するところだったんだ。」 「あたしは邪魔をしてしまったのか。」 ナガは唇についた芋のかけらを払いながら答えた。 「大したことじゃない、気にするな。昔の聖者が悟りを開いた時というのは、ちょうど、さっきの俺みたいな状態だったのかなあ、と思うだけさ。おれは、何かの間違いでこうなった。お釈迦様が悟りを開いたときは、世の中を救いたまえ、と梵天が現れて言ったらしいが、おれの場合には、おまえが来たからな。重い責任を負うこともなさそうだし、のんびり楽しくやるさ。」 女鬼はあきれた顔をした。 「おまえは、こころざしが低いねえ。まあいいさ、気に入ったよ。」 「うん。ところで、俺はこの腐った体を治すという目的のためにここに来たんだ。神の岩の前で大きな鬼に出会った。その鬼が治し方を知っているようだったんで、教えてもらおうとしたんだが、おまえ、その鬼に心当たりはないか。」 「はーん。善鬼に出会ったんだね。治せるなんてよく言うよ。下手くそのくせしてさ。体のことならあたしの方が何倍もうわ手だよ。」 「代わりに教えてくれないか。」 「いいよ、おやすいご用さ。」 女鬼はナガを救うことにした。 「どうすればいい。」 女鬼はナガの目をのぞき込んだ。妙鬼の目に赤い火がともった。 「人を生き腐れにする外道の呪いがある。それを使って治すんだよ。」 「毒を以て毒を制すか。」 「そう。おまえの体の中にある腐った所を呪をもって焼いて、絞り出すんだ。そうすれば助かる。」 「ずいぶん痛そうな手法だなあ。うん、でも、それが一番良さそうだ。ようし、ではやってくれ。」 「すぐだよ、簡単なことさね。始めるよ。」 ナガは岩の上で結跏趺坐の姿勢をとった。女鬼が少し離れて口の中で呪文を唱え始めた。 焚き火のはぜる音が消え失せた。夜風に鳴る木の葉の音も聞こえず、山犬の遠吠えもなくなった。完璧な静寂はナガ自身の心拍音だけを強調した。 心臓の鼓動とともに指先や耳の先端、鼻の先までがかすかに脈打っているのが感じられた。ナガは目をつむった。 すべての感覚は肉体の内部に向けられた。頭頂部から右足のつま先までの無感覚な部分が映像化されて浮かび上がり、黒い荒縄のようなものが体を貫いているのがわかった。 それは小指ほどの太さのものだが、脳を貫き、首から脊椎の脇を抜けて、足裏に至っている。体に受けたダメージは足だけにとどまらないことを物語っていた。 「おまえの体の悪いところが見えるだろう。」 妙鬼の声が聞こえた。 「ああ。」 ひどい状態だ、とナガは極めて客観的に思った。女鬼の唱える呪文が大きくなった。 突然、ブチッと音がして頭頂部に激痛が走った。ナガは特大の腫れ物が潰れた気がして目を開いた。頭の先からニュルニュルとおびただしい血膿が出ていく。どろどろに溶けた肉片、骨のかけら、粘液、を含むものがどのぐらい出るのかと思うぐらい出てくる。 排出物はナガの髪の毛をつたい、衣服をつたって岩の上に溜まっていった。 今度は足裏に痛みと痒みをおぼえた。足裏に肛門が生じ、そこから便がひり出されていくとしたら、同じような光景と言えるだろう。その量はおびただしかった。ナガは肉が腐ったような、いやな臭気とおぞましい様子に吐き気がしてきた。 「なんて汚いんだ。」 「おまえの体だよ。」 「ああ。」 やがて、体内にあった黒いものは見えなくなった。一方で全身に波打つような痛みを覚え始め、結跏趺坐の姿勢を保つことが耐えられなくなってきた。 ナガは、自分のまわりに溜まった汚物を見、これほど大量の壊死した組織が溜まっていたのかとあらためて驚いた。 「ひどいもんだな。」 組んだ足をほどいたとたんに痛みが急激に強くなり、ナガは気が遠くなってきた。 妙鬼はナガを見ていた。 「ほら、簡単だっただろう。谷川に連れて行って洗ってやる、それからならいくらでも抱かれてやるよ。」 ナガは女鬼の声を聞いて、ひきつった笑みをうかべた。 「その気持ちはうれしいんだが、、。」 言い終わる前に、ナガは激痛によって卒倒した。 |