ナガは家に運ばれていた。先に帰ったミナがナガの異常を伝え、タノトは倒れていたナガを背負って戻ったのだった。ナガが雷に打たれたあと、タノトは一通り息子の体を調べた。そのときには黒い痣は現れていなかった。タノトは再びナガのからだを調べて愕然とした。頭にも足にも小さく深い傷がある。それは頭の先から足の裏まで、体を貫いていると思われた。なによりも、ナガの左足は膝から下がかすかに紫色を帯び始めている。

 タノトは薬湯の処方を考えた。当時、畿内には大陸からの渡来人が貴重な知識を携えて数多く移り住んでいた。タノトは渡来人の僧侶から薬草と薬石の扱いについての手ほどきを受けており、当時の最新薬を扱っている自負を持っていた。

 タノトは妻のタニノメに湯を沸かすよう命じた。しかし、タニノメはおろおろするばかりだった。

 タノトの厳しい叱責が飛んだ。

「ナガを助けたいなら、早く湯を沸せ。」

 タニノメは水を汲みに行った。ミナもタニノメの後を追った。

 タノトは離れの小屋にむかった。そこには周辺の山野に自生する百種に及ぶ薬草類が保管されている。壁や天井から自然乾燥させた草の束がたくさんぶら下がっており、タノトは竹を編んだ篭を脇に抱えて、つぎつぎとめぼしい薬草を放り込んでいった。

「牡丹皮、芍薬、桂枝、麻黄、罌子粟」

 タノトは薬物の処方を頭の中で組み立てていった。

「タノト、湯が沸いた。」

 ミナがタノトを呼びに来た。

「よし、では始める。」

 湯が竈に据えられた硬質の陶器の中で沸きたっていた。

 タノトは頃合を測りながら薬草類を次々に湯に浸していく。煮出された薬効成分が、湯を褐色に染めていった。

「これでいい、飲ませよう。」

 タノトは、柄杓で褐色の薬湯をかきまぜながら自信を込めて言った。

 ナガは床に寝ころんで、焚き火の熱気と煙に悩まされていた。ただでさえ暑い時期に狭い家の中で大量の薪を燃されてはたまらない。部屋中が蒸し風呂のようになっている。

「ナガよ、これを飲め。」

 木をくりぬいた大きな鉢に褐色の薬湯がなみなみと注がれてある。ナガはおとなしくその鉢を手にとって少しずつ飲んだ。飲みやすくするために少々冷ましてあるが、それでも暑い時期に飲むものではない。ナガは体に熱がたまる一方だ。

「気分はどうだ。」

 タノトはナガの足を見ながら尋ねた。ほんの一刻の間に足の色がずっと悪くなっている。とうてい薬湯で治せるような状態ではない。タノトは胸の内で、ある決断をした。多くの病人を見てきた者に備わる厳しい決断である。

「悪くない、でも傷が出来ている。」

「知っている。ナガよ、よく聞け。わしはこれから都に行って人を呼んでくる。」

「うん。」

「頭の傷は傷薬をつけるほか、どうしようもない。しかし、足の方は何とかなる。これから先、いくぶん不自由になるだろうが杖を作ってやるからちゃんと歩ける。」

「・・・・。」

「大丈夫だ。片足がなくても、生きていける。」

 ナガは、タノトの言っている意味が分かって、Oの字の形に口を開けた。

「おれはイヤだ。おれの足を切り落とすのか。」

「ナガよ、悪い怪我をした足は、切るしかない。見てみろ、色が悪くなっている。このまま放っておけば、もっと悪くなり、おまえは死んでしまうことになる。」

 ナガは自分の足を見てぞっとした。確かに、青痣のような生気のない色に変わっている。

「おれは逃げる。」

 ナガは飛び起きて逃げようとした。

 しかしタノトの丸太のような太い腕に掴まれ、身動きできない。

「縄を持ってこい。」

 タノトはタニノメに藁で編んだ縄を持ってこさせ、ナガを柱に縛り付けた。

「おとなしくしろ。不憫だが、こうするしかない。」

「燕雀安知鴻鵠之志哉。」 

 ナガは、意味不明の言葉を口走った。

「ああ、やっぱりナガはおかしい。」

 ミナは再び嘆いた。しかし、タノトの反応は違った、薬学について教えてくれたのは唐から渡来した僧であった。

「どこでその言葉を習った。」

 父は、冷静にナガに尋ねた。

「勝手に頭の中から湧いてくる。意味も分かる。」

「どんな意味だ。」

「大鳥の志は理解されにくいという意味だよ。」

 タノトはナガの言葉遣いが、なめらかになっていることに気がついた。タノトは、馬に頭を蹴られることで知恵者に変わったという人の話を聞いたことがあった。

「ナガよ、不思議なことはあるものだ。わしは、今、それを目の前で見る思いがする。」

 タノトの息子を救う気持ちに変わりはなかった。ナガを見張っておくように命じ、急いで出かける支度をする。

 タニノメは、どこからか反物を持ち出し、タノトに手渡した。ナガはこの家に上等な反物があったとは知らなかった。まだ金属貨幣は一般的でなく、布や米が「通貨」としての信頼が厚かった時代である。

「ナガ、きっと助けてやる。」

父はそう言い残し、急いで出かけていった。

ナガは、雷なんぞを見ようとしなければ良かったと後悔しながらも、神の岩で出会った不思議な鬼のことを考えていた。頭の中にちらりと浮かんでくる知識の断片が次第に意味を持ったものに変化し始めている。

ミナは、ナガに起こったことを受け入れようとして出来ないでいる。

「暑くてたまらん。これをほどいてくれ。」

 ナガは母とミナに訴えた。ナガは暑さと緊張で全身汗まみれになっていた。顔だけはミナが汗をふき取ってくれるのだが、着物は汗でぐずぐずになっている。

「解いてやりたい。けれども、そうすれば、おまえは逃げるつもりだろう。命を救うためだと思って、おとなしく足を切られろ。」

 タニノメは涙を浮かべて言った。ナガの思考は、厳しい現実を前に、かつてないほど加速した。このまま、ここで手荒な手術を受けることになった場合の仮定的未来を、自分の中にある利用可能な知識を総動員して予見してみるのだ。時間の経過とともに、不思議な知識が次第に自分のものになりつつあったのである。

 はじき出された結論は無惨なものだった。足首から切断された場合、予後が悪くひと月ほど寝込んで死ぬ。膝からの場合、三月もって死ぬ。足の付け根からの場合、出血多量とショック症状で即死だ。ナガは、このままだといずれにしても非常に苦しんで死ぬことになることを悟った。

 ナガは、神の岩の前で出会った不思議な鬼の言葉を思い出した。鬼は、確かに、傷を治す方法があると言っていた。

「ふたりとも聞いてくれ、足を切っても俺は助からない。今の俺にはそれがわかる。俺は、自分で自分を救う方法を見つけることにする。あの頑固親父が感心していただろう、雷に打たれ、俺には不思議な力が宿った。それを使って自分で治す。頼む、ほどいてくれ。」

 母とミナはナガがすらすら喋るのを聞いて大変驚いた。

「おまえ、、、賢くなったのか。」

 タニノメは、口元がぴくぴく震えている。

「ああ、文殊童子みたいなもんだ。傷が治れば、眷属を従えて帰ってくるさ。かあちゃん、ミナ、この縄を解いてくれ。」

  口からの出任せだった。しかし、タニノメにはそれが何となく現実に起こるような気がした。

「タノトが帰ってきたらきっと怒る。」

 ミナが訴えるように言った。

「親父は、俺が生きて帰ってくればそれで納得する。たのむ。ほどいてくれ。」

タニノメは縄を解いた。

「恩に着る。きっと戻ってくるからな。」

 ナガはそう言って立ち上がった。

「ちょっと待て。」と母は引きとめた。

 麻袋に芋や豆などの食べ物を詰め込む。さらに、棚の上に隠してあった蕨手(わらびて)の太刀を取り出した。それは一尺ほどの鉄製の短剣で柄がしらがワラビのように丸く曲がっている。

「ナガ、これを持ってゆけ。」

 母は麻袋と短剣を手渡した。山に入るときには、こうした道具は何かと役に立つ。それにこの小ぶりの短剣は、ナガが以前から欲しいと思っていた物なのだ。

 ナガは無言で頷き、剣と麻袋を持って外に走り出た。

 

その夜、金剛山の頂。

夜空に夏の銀河が雄大に流れるのを見ながら、質素な晩飯を食べている者がいた。都でも有名な役行者である。松の葉を束にして持ち、少量の百合根を膝の上に置いてある。松葉を食べると夜目が利くようになり、感覚が鋭くなると言われている。百合根は鬼が役行者に命じられて、吉野まで出かけて採取してきたものだ。

 すでに役小角は六十を越えているが、山野で鍛え上げた体は猿のように機敏に動く。それを支えているのは深山に育つ自然薯、葛根、行者ニンニクやふきなどの山菜、ウドやゆきささの芽、各種のキノコなど豊富な自然の中の食物である。鬼は小角に師事して教示を受け、小角の求める食材の調達をしている。

「この百合根は味がよい。良い物を取ってきた。」

 鬼は誉められてまんざらでもない表情になった。いつもは、この老人はなんだかんだと文句を言うのだが、今日は少し風向きが変わったようだ。

 老人は一塊りの百合根と一掴みの松葉を食べて食事を終えた。鬼は余分に取ってきた山菜類を、頃合いを見計らって口の中に放り込み、ごくりと飲み込んだ。

「ところで、善鬼よ。食材の調達の際、変わったことはなかったか。」

 鬼は、いや、と首を横に振った。

「何やら、意味ありげですな。何があるというのです。」

 小角は、真剣な表情になって話し始めた。

「今、食した百合根は吉野山の香りがした。吉野にまで足を延ばして、採ってきたのであろう。途中何も目に入らなかったか。天神池の色や匂いは変わりがなかったか、子守山の上も飛んだであろう、山の霊気に変わりはなかったか。」

 鬼は、おそれいった。

「御主が儂の身の回りの世話を始めて四半世紀になる。毎回ご苦労だと思っておる。しかし儂の要求を満たすために、近畿周辺のすべての地理、地勢はすべて頭に入ったことと思う。また、すべての植物群落の分布、動物相も記憶したはずである。山に入ってから儂はあらゆるものを食べた。毒になるもの、滋養になるもの、様々である。これは同時に重要な自然観察でもある。」

 鬼はこれまで要求された食材の数々を思い出した。真冬に桜の花を求められたり、滅多に咲かない生姜の花を食べたいと言われたときにはずいぶんと苦労した。しかし目的のものは必ずあった。条件さえ整えば冬の桜もあるし、生姜の花も咲くのだ。

「すべての妙なる術はまず自然と一体にならねばかなわぬ。自然観察とそれを食することが第一歩なのだ。考えてみよ、御主は生まれつき空を飛び、岩をひねりつぶす怪力を持つ。しかも、我等よりも遙かに長寿じゃ。それ自体が驚異だと思わないか。すべての術は、山の自然が少しずつ教えてくれる。そのことをゆめゆめ忘れるな。」

 鬼は平伏し、大賢人をあがめた。

「ははーっ。四半世紀にわたる貴重な御教導に感謝いたします。」

 鬼が地面に頭をつけて、大賢人の高邁な意図を理解していなかったことを言い述べているとき、周囲の空気がびりびりとふるえた。

「妙鬼か。」

 小角の言葉に導かれるように、美しい女鬼が現れた。

 身に神像のような具足をまとって、長い剣を佩いている。

長い髪を後ろで束ねた横顔は、額に突き出た二本の角を除けば完璧に美しい人間の女に見える。

「何をそんなに、有り難がっているんだ。話は聞いたよ。このじいさんは食いしん坊なだけさ。他に楽しみがないから、味道楽になってるんだ。」

 小角はきまり悪そうにした。

「あれこれ理屈を付けてさ、ただでこき使ってるだけじゃないか。」

  女鬼の舌鋒は実に鋭かった。小角はムキになって言い返した。

「妙鬼よ、それは違うぞ。儂は善鬼を使役する。しかし、それは同時に善鬼の知識となって自然の理解に役立つのだ。」

 女鬼は大賢人の説明を鼻で笑って聞き流した。

「ふん、いい加減なものさ。本気で教えるつもりなら、最初から手取り足取り教えたらどうなのさ。善鬼、術ならあたしが教えてやるよ。久しぶりにどうだい。」

女鬼はなまめかしい舌で唇をなぞった。ぞくりとするような妖艶さである。

善鬼は、かぶりを振った。

「おまえの術はめくらましや呪い、それから性技に関することばかりだ。せせこましくて、つまらない。私は、大地と水、風に関する理を学びたいのだ。」

 女鬼の眼差しが激しく燃え上がった。

「あたしを馬鹿にしたね。都でおまえの怪談話を広めてやる。なにさ。」

 女鬼は怒って消えてしまった。

 善鬼は、何事もなかったように、小角に向き直って話を続けた。

「で、先ほどの話ですが、もう少し説明してもらえませんか。何か変わったこととは、例えばどのようなことですか。ひょっとしたら神の岩に関係があるのですか。」

 ふむ、と老人は頷いたが、先ほどの女鬼が気になるのかどこかそわそわしていた。

 小角は女鬼を妙鬼と呼ぶ。前鬼に対して後鬼と呼ぶこともある。小角は若い頃、妙鬼と契りいろいろな術を教わった。しかし精力の減退とともに次第に遠のき、ここ十年は全くのご無沙汰である。久しぶりに出会ったが最初に出会った頃と全く変わらない美しさだ。

「御主が妙鬼を抱かぬのなら、儂が代わってやれたのだがなあ。」

 老人がぼそりとつぶやいた。

「えっ。御上人に、まだそんな気持ちがおありとは、、、意外ですな。」

 老人は、胸を張って答えた。

「ここ十年、木食によって蓄えた精力は若者に負けぬぐらいじゃ。」

 善鬼は、妙鬼が老人に放った悪口が多少は真実をついていると思った。

 大事な話をする雰囲気がすっかり崩れてしまった。

 鬼が気を取り直して再び質問しようとしたとき、小角が先に口を開いた。

「あの岩は元々あそこにあったものではない。近くの二上山から誰かが運んできて据えたのだ。あれと同じものを別のところで見たことはないか。よく思い出してみよ。葛城のものは誰かが磨いたとみえて黒い。しかしそうでなければ、あの岩石は比較的短期間に表面が風化して白っぽく見える。」

「おお、そういえば信貴山と音羽山にもある。」

「全部で五つあるのだ。大和の地を五つの点で取り囲んでいる。若い頃、しらみつぶしに山を歩いて探し出した。今からどれぐらい昔にこのような仕掛けが作られたのかはわからん。しかし、調べるうちにその働きは明らかとなった。一つ一つの岩が守り札として機能している。つまり大和を守る符というわけじゃ。いや、機能していたというべきじゃな。」

 鬼は神妙な顔つきになった。

「呪の効果が消える時期が来ていたのかもしれん。雷だけで破れるような符ならば、もっと以前に破れていただろうからな。ただ最後の一押しをしたのは、間違いなく昨日の雷じゃ。問題は、符の一つが破れることで、守り札の玄妙な力がすべて消えてしまったことにある。残った四つの符までが働きを止めてしまったようじゃ。このまま放っておけば都に大きな災いが起きるだろう。すぐにでも、あの符に代わる守護法の工事を始めねばならん。」

 鬼は、長い間待った値打ちがあった、と思った。

「符の機能と、その代替法について教えていただけるわけですな。」

「無論じゃ。御主に手伝ってもらわねば、とうていこの老骨には出来ない仕事だ。」

 鬼は久しぶりに愉快になった。

「その工事の具体的な内容は決まっているのですか。」

「頭の中に設計図面を描き上げてある。のちほど紙に書いて手渡すが、そのまえに、吉野から生駒、近隣の山々で修行する山伏たちに大号令を発するのだ。山に橋を架けるほどの大事業になるぞ。明朝、日の出の刻、当麻寺においてその計画を発表すると伝えよ。」

 小角は、修験道の開祖の威厳をもって鬼に命じた。鬼は喜々として夜の闇に消えていった。

 

 

 

 

 

 

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