| 義覚と義元が、そろって葛城の道場にナガを訪ねた。初霜のおりた日のことである。 紅葉の季節ににはまだ早いが、一本の銀杏の木だけが一足早く黄色い葉をつけていた。 二人は朝廷からの奇妙な密書を携えていた。 「ナガ、まずはこれを見るがいい。」 文書は黒い布で装丁されてあった。大きく、きわめて分厚い。頁をめくるとぎっしりと細かい文字がならんでいる。 「これを読むには、二、三日はかかる。どんなことが書いてあるのか、かいつまんで説明してくれないだろうか。」 義覚は、軽く頷いた。 「まず、この書を記したのは、刑部省でも右弁官でもなく、太政官だ。最高府が出てきたのだから、朝廷としてもずいぶん苦しんだのがわかる。うしろのほうに連名で高官の名前が記されてある。内容は、冒頭から読んでいくと今回の事件についてのいきさつが、こと細かに書かれてある。ほとんどの文面は師の逮捕についての正当性をくどくどと書きつらねてあるだけだ。たぶん何かの資料をそのまま書き写したのだろう。ところが、後ろの方で内容が急転する。師を召し取ったことが間違いであったと、はっきりと書いてある。」 ナガは手を打ち合わせた。 「やった。俺たちの勝利だ。」 義覚は手をあげてナガを制した。 「まだ続きがあるのだ。朝命によって召し取った以上それを軽々しく覆すことはできないという強硬な意見がある。そのため、このまま御上人の放免はできないと書いてある。」 「それなら、さらに強力な手を考えるぞ。」 ナガの目に冷たい光が宿った。慌てて義元が割って入った。 「待て。すでに師は太政官のもとに置かれている。刑部省の囚獄司には、師が入っているはずの空っぽの牢獄を見張る牢番が置かれたままだという。太政官は師を密かに解放するというのだ。ただし、師から伊豆配流を望んでいると聞いているので、来るべき裁定に先だって旅に出、自ら伊豆に入って欲しいとある。そのかわり、新しい律令が近々でき上がる、そのおりには無罪を宣言し、黒冠を授けると約束している。」 「それが朝廷のやり方か。猿芝居じゃないか。」 ナガは権力者が体面を保つために演ずる醜態をおぞましいと思った。また、義元にも憤りを覚えた。このような裏交渉を受け入れたのは義元であろうことは明白であった。 「われらの承諾があり次第、すぐに放免すると書いてある。」 「くそっ、あと一押しだ。もう一手、打とう。」 義元はナガを見て言った。 「ナガ、その書の一番後ろの頁を見てみよ。師の署名がある。役人は既に師との取引を終えているのだ。」 「ふん、こんなものは問題じゃない。」 義覚にとっては小角の署名は尊重すべきものだった。 「こんなものとはなんだ。」 「俺は納得できないぞ。強要されて署名したのかもしれないだろう。」 「よさんか。」 義元が珍しく厳しい声で言った。 「ナガ、義覚と私で同じような口論をした。義覚は釈然としないと言っていた。とくにナガの周りで起こったことを思えば、あと一手打たせたやりたい気持ちはあるのだ。しかし、私怨を持って事を為せば、また別の恨みを生むのではないか。私はこれでいいと考える。義覚も師の署名をみて得心した。師の筆遣いをよくみよ。私には、師の心中が読めた。はればれとした筆のおもむきがある。これは強要されて書かれたものではない。」 ナガは、分厚い書の最後の頁を開いた。そこには躍るような筆法で小角の名前が書かれてあった。その隣に藤原不比等の名があった。不比等に会ったことはなかったがその名には覚えがあった。 これでよい、ナガはどこからかそんな声が聞こえた気がした。もはや、最初の目的は完全に達したと言うべきだった。小角をはじめとして、弟子の誰もが、さらに紛争の種をまき、破壊工作に走って徹底抗戦する気質を持ち合わせていない。また朝廷にしても然りであった。誰もが多少不透明でも穏やかな解決を望んでいた。 「本当に、これでいいのかい。」 ナガの言葉に義覚が頷いた。 「わかった。俺たちの戦いは終わりだ。」 小角は葛城山に向かってゆっくりと拝礼し、合掌した。山に別れを告げている。 義元は、小角に道場に入って休むようにすすめた。 「疲れてはいない、太政官に移されてからは下にも置かぬ待遇だったのだ。儂はこのまま旅に出る。」 あまりにも性急な話であった。義元は少なくとも二、三日は葛城にとどまり、骨休めをすることになるはずだと考えていた。 「師よ、せめて明朝の出発としていただけませんか。積もる話もあります。また、旅の支度もしなければなりません。」 「儂は旅支度などしたことはない。空は儂の部屋の天井じゃ。必要な物は行く先々で手に入る。」 小角はすでに遠いところをみていた。 義覚が涙を拭って言った。 「義元よ、うしろ髪を引かぬことだ。師は朝廷との約定を僅かでもたがえることのないように気をつかっておられる。つぎにお戻りになるとき、そのときこそ、盛大にお迎えしよう。」 「旅立ちには善い日ですな。こんなに澄んだ空はそう滅多にありません。」 善鬼が空を見上げて言った。 「俺も行くよ。まえからそう思っていた。」 ナガは、富士に登るつもりだった。 「儂一人で行く。」 「あたしが行くよ。」 妙鬼が姿を現した。 「いや、儂は一人で行く。善鬼よ、妙鬼よ、ここで別れよう。義元、義覚、精進をせよ。ナガ、お主にあえてよかった。」 「御上人。」 ナガの呼びかけに小角は軽く頷いただけだった。たった一人で街道を歩いていく。その後ろ姿が小さくなりやがて物陰に隠れて見えなくなるまでナガたちは見送った。朝廷との密約であるために他の見送りはない。 「ナガよ、われらは寺に戻る。気が向いたらいつでも来い。」 義覚と義元もそう行って去っていった。 「みんな行ってしまうんだな。なあ、善鬼。」 ふと善鬼を振り返ると、その姿がもやもやとぼやけ始めている。 「おい、善鬼、どうしたんだ。」 善鬼は、にやりと笑うだけで答えない。 「善鬼、戻れ。俺を一人にするな。」 神は人の作ったものじゃ、自然の中にある特別な気配に名を与え、それに人の思いを重ねて練り上げたもの。それが神や仏じゃ。それを忘れるな。 ナガの心に、いつか小角が語った言葉が蘇ってきた。 「善鬼、行くな。」 必死の願いを込めた言葉にも善鬼は答えなかった。善鬼は影を失い完全に見えなくなった。ナガは胸のつぶれる想いがした。 「御上人は、やはりすごい人だ。善鬼は御上人の心が生み出したものだったのか。」 「小角が生み出した訳じゃないんだよ。」 妙鬼の声にナガは振り返った。そしてぞっとした。 妙鬼の姿も影が薄くなっている。 「妙鬼、おまえまでいなくなるのか。」 妙鬼は力なく頷いた。 「おまえは唐の国から来たんじゃなかったのか。御上人とはまた別の力で生きていたんじゃなかったのかよう。」 ナガは次々に仲間を失うことに耐えきれなくなった。 「あたしには魂がある。唐の国からこの国に流されて死んだ女のものさ。あたしは妙鬼に宿った。ナガ、小角が言ったことをよく思い出すんだ。善鬼も妙鬼もどこにでもいるんだよ。それに形を与えるのは人の想いだ。強い想いがあればいつだって現れる。」 ナガには妙鬼の言いたいことが分かっていた。鬼たちも姿を失いたくはないのだ。 「俺なんかに御上人の力があるわけがないじゃないか。」 妙鬼は菩薩の姿に変わっていた。 「あたしはもう行くよ。ナガ、楽しかったよ。」 妙鬼はそう言い残してこぶしほどの丸い透き通った玉となり、空に昇っていった。 「みょーうきーっ。行くなー。」 ナガは精一杯の声を上げて妙鬼の名を呼んだ。 ナガの頬に幾筋も涙が流れた。別れの涙は忘れていたはずだった。 「俺の涙を戻してくれたのか。妙鬼よ。」 ナガは悲しい想いに沈んでいった。 ひとりだ。じぶんひとり。 ナガは抜けるような青い空を見上げた。一羽の白い大きな鳥が、遙か上空を悠々と南に向かって飛んでいる。その姿は神々しくもあった。 「鳥はたった一羽でも自由に飛んでいけるんだなあ。」 ぽっかり開いた心の穴に新しいものが芽生えようとしていた。 「人も結局は自分一人なんだ。俺も最初から今までずっと一人だった。」 ナガは自分の掌を見た。 人は血と肉で出来たものではない、そこに宿る魂こそが人たるものだ、それは、地上にあるすべての気配と同じ、草木も動物もみんな同じ気配を持っている、ナガは心からそう思った。 ナガは小川に泳ぐ小魚を見た。さかんに小さな虫を食べている。 「ただ、虫を食べているだけではないぞ。小魚たちは遊んでいる。楽しくてしようがないんだ。喜びに満ちて泳ぎ回っている。」 ナガは小魚の楽しさを感じた。言葉などは知らなくても、楽しさは最初からある。悲しみに塞がれた心を自ら解放して、いのちの喜びに身を委ねるべし、ナガは心からそう思った。 ナガの中で新しい喜びが膨れ上がっていった。その思いが体中に溢れてきて、小躍りしたくなった。やがて、ナガの側におぼろげな二体の子鬼の姿が現れ、ナガの思いとともに踊った。それは次第にはっきりとした形を持ち始めた。 「おい、ナガ。」 甲高い子供の声でナガは我に帰った。ナガの顔を見上げる子鬼の姿を見てナガは笑った。 子鬼の顔は幼いけれどもそれは確かに善鬼の面影を残していた。 「おまえ、善鬼か。」 「そうだ。ずいぶんちびの姿にしてくれたな。それもおまえの心が幼稚だからだ。」 「そうだよ、これじゃあおまえを抱いてやることも出来ないじゃないか。」 もう一体の女鬼が少女の声で言った。 「おまえは、妙鬼か。」 「ああ、そうだよ。」 「李隗なのか。」 「そうじゃないよ。あたしはミナさ。」 ナガは心の底から笑った。 「よーし、俺はこれから旅に出るぞ。おまえたちも来い。世界中を回り、あらゆるものを見て回るんだ。」 この日から二年の後、小角は正式に朝廷から赦されこの地に戻った。修験者たちや村の人々はもちろん役人や都の人々など、役行者を慕う数多くの人々によって盛大に迎えられて帰国した。夜には村じゅうが篝火を焚き、祭りのような賑わいであったという。 その中にナガの姿はなかった。 ナガは記憶の断片をつなぎ合わせる旅に出た。二体の鬼を連れて海を渡り、山河を越えた。 「ナガ、次はどこへ行く。」 善鬼が船を操りながら尋ねた。見れば青年期の鬼となっている。ナガは屈強な一人前の男に成長していた。国籍不明の衣服をまとって、手に丸い玉を持っている。木を削りだして作った玉だが、その表面に記憶を頼りに描いた大陸の形が彫り込まれていた。 「そうだな、ペルシャにしようか。いや、どこでもいい、どこに行っても知らないことばかりだ。」 「あたしは宝石のとれる島できれいな石を探してみたい。」 妙鬼は美しい娘の姿になっていた。 「よし、それじゃあ、そうしよう。」 「南西だな。」 「ああ。たぶんな。」 終わり |