都に山伏たちが現れて一月が過ぎた。初めの頃こそ、山伏と捕吏との小競り合いが多発したものの、今では刑部省の役人をはじめ、捕吏たちの姿は完全になりをひそめた。修験者たちは強硬だった、暴力には暴力を持って対抗し、同情を集めることも忘れなかった。囚獄司から賀茂郷の村人が消えたことも朝廷の権威を損なう材料になった。兵を募る呼びかけに応じる者も少なく、無理に徴用する事もはばかられた。まもなく収穫の時期が来るのである。男手を取り上げて米の生産を落とすことはできないのだ。

 不比等は小角を捕らえたことに苦り切っていた。訴えを起こした国見連虫麻呂を追求することはできなくなった。虫麻呂は死んだ。その死をもって虫麻呂を殉職者として利用することも出来なかった。虫麻呂の不正な蓄財を暴く訴えが起こされたのである。謀反の疑いをかけて賀茂郷のすべてを徴収する計画は台無しになった。物部塩古連広足を証人にする事も出来ない。今や都で広足の名を知らぬ者はなく、広足は事あるごとに小角の無実を叫んでいる有様だった。

 何もかもが、不比等にとって裏目にでていた。

「不比等様、いっそ小角を解放して讒言を為した者を捕らえてはいかがでしょうか。」

 側近の一人が、不比等の顔色を伺いながら尋ねた。

「天子様の勅許を戴いてあるのだぞ。いまさら出来るか。」

「はあ。」

「よい知恵はないか。」

 不比等は数人の側近を集めて小角に関する対策を練っていた。

「賀茂郷に攻め入り、根絶やしにしますか。」

 常々、過激な提案が勇武を示すと考える中臣加羅麻呂が言った。暗愚だが不比等と同族であることで側近となった。

「愚かな、いきなり理由もなく攻め入る事が出来るか。民心が朝廷から離れてしまう。」

 不比等は恨みを買って呪殺されることも怖れていた。朝廷の威信を失わず、しかも山伏をうまく治める方法が必要だった。

「小角の弟子の義覚と義元が都に来ているそうです。」

 不比等はこの情報を待っていた。

「義覚の名は私も知っている。どこだ、さっそく出掛けて会うことにする。」

「召し出せばよろしいではありませんか。」

「馬鹿者、何日かかるのだ。」

 側近は慌てて口をつぐんだ。不比等は側近たちが馬鹿に思えて仕方がない。実際には、愚人もいれば賢人もいる。根本に他人が愚かに見える性格を有しているのだ。不比等は中臣鎌足の子である。生まれながらの権力者であり、旺盛な行動力を併せ持っていた。

 義元と義覚の逗留する寺に向かって不比等は急いだ。側近たちが周りを固めている。山伏の姿が嫌でも目に付く、なかには、その行動がしだいに傍若無人なものに変わってくる者がいる。さすがに夜盗の真似まではしないものの、貴人の家に喜捨を強要する者が現れるようになった。都大路には、貴族が出歩かなくなっていた。

 不比等たちの前に、見るからに出来の悪そうな山伏が立ちはだかった。

「布施を頂戴したい。」

 物を乞う態度ではなかった。山伏は明らかに若い貴人の集団をからかっているのである。加羅麻呂が腰の剣に手を掛けた。

「無礼者、道を開けよ。」

「斬るか、斬ってみよ。優婆塞とて僧じゃ、祟るぞ。」

 不比等は加羅麻呂を手で制した。懐から銀を取り出し、山伏の前に放り投げた。

「先を急ぐのだ。」

 山伏の前を通り過ぎ、不比等は後ろから山伏の嗤い声が上がるのを聞いた。

「おのれ、増長にも程があるぞ。」

 加羅麻呂は歯を食いしばり身を震わせて悔しがった。身分から言えば天と地中の虫ほどの差があるのだ。仏教は貴族を迷信の虜にしていた。人を品物のように売買したり過酷な労役に就かせる傍ら、僧を殺すことだけは忌み嫌われた。

 目的の寺に義覚と義元の姿はなかった。

「義覚様は葛城の茅原郷に出掛けておられます。」

 住持は不比等の前に平伏して言った。

「何用か聞いているか。」

「ナガ様に会いに行くとか。」

 住持は義覚からナガの名を聞いていた。

「ナガとは誰か。」

「詳しいことは何もお話になりませんが、ナガ様はたいそうな知恵者であると聞き及んでおります。」

「そんな名は聞いたことがない。年寄りか。」

「さあ。詳しいことは、、、。」

 埒があかぬ、と不比等は思い、さらに茅原まで足を延ばすことにした。側近たちは不比等の行動範囲の広さを知っている。不比等は何事につけても自ら出向いていく、それだけに物事の決断は早かった。馬を走らせれば、茅野などは近い。

 不比等たちを乗せた五頭の馬が、街道を走り抜けた。田の稲穂が黄色く色づきかけている。馬はやがて茅の茂る丘に到着した。村の若者が数人、茅の刈り込みをしていた。馬に乗った貴族がやってきたのを見て、早々と平伏した。そうしないといつ斬られるか分からない。庶民の命は軽く貴族は暴慢だった。

「ナガを知っているか。」

 茅野でナガを知らない者はいない。この若者たちは、かつてはナガをからかって遊ぶこともあった。ナガは若者たちの悪意を感じ取ることはなかった。それほど深刻な悪意の所行が行われることがなかったせいもある。郷全体が一つの共同体だった。

「ナガなら、葛城の道場にいます。」

「ナガとは何物か。」

 若者たちは、ナガがつい最近まで親の手伝いも出来ず村の仕事もできない阿呆であったことを話し、雷に打たれて文殊の知恵を授かったことをおそるおそる話した。

「雷か。」

「不思議な話でございますな。」

 加羅麻呂は、しきりに感心したが、不比等は苦虫を噛み潰した顔つきになった。現実の権力を握る者にとって奇跡や聖人などは余計なものでしかない。しかも自分を窮地に追い込んだのが一介の庶民であることがさらに気分を悪くした。加羅麻呂は不比等の様子に気が付いてすぐに無表情な顔を作った。

「ナガの家に案内せよ。」

 不比等は相手の弱点を探ろうとした。

 

娘が丘の上に立っていた。ミナは貴人の一行が馬に乗ってやってくるのを早くから見ていた。茅野は高台にあり見晴らしがいい。茅野に出向いてくる都の貴人といえばナガを訪ねて来るのに違いなかった。ミナは貴人たちが義覚や義元たちのようにナガに対して好意的な存在であることを疑わなかった。

 ミナは丘の道を駆けた。健気にもナガのいる場所に案内してやろうと考えたのである。

 道は縦横に走っており、いたるところで交わっている。茅に遮られているため不意に出会って驚くことがある。

「ナガに会いに来たのか。」

 ミナは辻から飛び出して声をかけた。

 ミナの突然の出現に馬が驚き、前足を上げていなないた。先頭を不比等の馬が進んでいた。不比等は馬から転げ落ち、ひどく尻餅をついた。ミナはその様子がおかしくて無邪気に笑った。いや、笑ってしまった。

「無礼者。」

 加羅麻呂は腰の剣を抜き放ち、馬の鐙を蹴った。

不比等の目の前に加羅麻呂が躍り出、空に向かって突き上げた剣を娘に向かって振り下ろした。

剣が陽光にきらめき血が茅を染めた。

「待て、馬鹿者。」

 不比等の叱咤は遅かった。ミナは肩から乳までを斬り下げられ、見る間に血の気を失って絶命した。加羅麻呂は不比等の不興を買ったことが信じられないといった顔つきをしていた。中臣の一族にとって庶民の娘など犬ほどの値打ちもなかった。気の利いた露払いをしたつもりでいた。

「これは誰だ。」

 不比等は案内をしている若者に尋ねた。若者は不比等を怖れ、憎んだ。

「ナガの一族だ。いつもナガと遊んでいた。」

 不比等は激しく舌打ちをした。

「去れ。加羅麻呂。」

 不比等の激しい語気に加羅麻呂は顔色を失った。不比等の強い不興を買ったものは即、左遷されることに決まっていた。

 不比等はナガとの話し合いが不可能になったと考えざるを得なかった。懐から一掴みの銀を取り出して、ミナのなきがらの側に置いた。

「よいか、これは事故だ。懇ろに弔ってやれ。」

 不比等はミナのなきがらに軽く手をあわせた。

 「帰るぞ。」

 不比等は茅野の若者を残し都に向かって馬を走らせた。

 

 ミナの死を知らせるためにタニノメは葛城の道場に向かった。都の高僧が頻繁にナガを訪ねるようになり、賀茂郷の者や、時折訪ねてくるようになった山伏からナガについて聞くにつけて、タニノメにとってナガは距離のある存在になっていた。

「ミナが、、、、。」

 ナガは絶句した。タニノメにはミナは実の娘と変わらなかった。タニノメは身を震わせ、赤く泣きはらした目でナガを見た。ナガは悲しげな顔でうつむいたが涙は見せなかった。

「おまえは泣かなくなった。」

 ナガは泣きたかった。泣いた方が楽だ。

「タノトが死んだときも泣かなかった。おまえは賢くなったけれども薄情になった。」

 タニノメは夫とミナを失った悲しみをナガにぶつけた。

「かあちゃん。俺だって悲しいんだ。でも、ミナにはまた会えるぞ。親父にも、必ずまた会える。」

 タニノメにはナガの言う意味が分からなかった。分かったとしても今の別れを泣いて悲しむことのないことが信じられなかった。言うべき言葉を見つけられず、愚痴が口をついてでた。

「おまえの兄も家に帰ってこない。みんな薄情だ。」

「俺にどうしろと言うんだ。」

「おまえは阿呆のままでいた方がよかった。タノトもミナも死なずにすんだ。」

 タノトの死はナガの呼び寄せたものではなかった。が、ミナについては自分に関係があるとナガは思った。それよりも母親から阿呆扱いされていたことを改めて知った。

「ミナも親父も俺を阿呆と言ったことはなかったぞ。」

 ナガの語気にタニノメは口をつぐんだ。自分の産んだ子であるから愛情はもちろんあった。しかし、ナガを穏やかな牛のように思っていた事は事実だった。

「俺は賀茂郷のみんなを助け出した。あのままだったら何人もが死んでいただろう。朝廷に揺さぶりをかけて、もうじき小角様も救い出す。俺は役に立っているんだ。ミナの仇だってきっと取ってやる。このまま済ませるもんか。」

「おまえはそんな怖ろしい口をきく子じゃなかった。」

 ナガは自分の帰る場所が次第に小さくなっていくのを感じた。

「ここは俺には狭すぎる。」

 ナガはタニノメを残してミナの家に向かった。ミナの死顔を見ておきたかった。それに、ひょっとしたら博麻のときのようにもう一人のミナに会えるかも知れないと思った。

 

 

  

 

 

 

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