「天の底が抜けたか。」

 と、人々は思った。

 大粒の雨が滝のように降り落ち、風が吹いた。

 土師連博麻は水越峠での工事の完成を目前にし、あまりの豪雨のためにやっと掘りあげた最も大きな隧道が崩れてしまうことを怖れた。これは横向きに掘られた井戸と言ってもいい。

「ナガ殿、善鬼様、これほどの雨を私は知らない。地滑りの危険もある。」

 ナガと善鬼、博麻は降りつける雨にずぶ濡れになっている。雨は口を開く度、容赦なく喉まで流れ込んでくる。ナガは葛城山と金剛山の間に築かれた小高い人工の山の上に踏ん張り、博麻の緊張した横顔を見ていた。

「崩れてしまうと、また一からやり直しか。」

 ナガは顔に叩きつけてくる雨を掌で避けながら尋ねた。

「再び正確な地下水脈を探知できるとは思えませんな。既にいくつもの穴が水を吹き上げており、今の穴が崩れてしまえば水脈はまた変わってしまう。」

「では、あの穴を守りきるしかないな。」

「水の力に抗うことは出来ない。今からでも隧道に水を通わせ、われらの作り上げた符を発動させるしかありませんぞ。」

「こんな雨の中でかい。嵐が来るかも知れない。」

「やむを得ませんな。」

「とにかく、穴を見に行こう。」

 豪雨は、築山の表面を削り、稲妻形の深い溝を刻んでいた。三人は這うように築山を下って、その真下に設けられた深い横井戸にたどり着いた。博麻の配下が数人、穴の周りで雨水の入り込むのを避けようと懸命に作業を続けていた。穴の前には山の急斜面に張り出すように屋根と足場が組まれてある。雨が木々の葉を打ち、しきりにざあざあと音を立てている。

 土師一党の穿った穴は人が立って入れるほどの高さと幅があり、内部は木枠を組んで補強されてあった。ほぼ水平に穿たれ、ずっと奥には小さな灯明が見えていた。その灯りまでざっと三十間の深さがある。

「穴から流れ出る水も増えています。雨水が流れ込むのも防ぎきれません。」

 報告を受けた博麻は隧道の入り口を見た。

 懸命の作業にもかかわらず、雨水の流入は避けられなかった。

「入ってみよう。」

 ナガは隧道の奥にともった明かりに向かって暗い穴の中に入っていった。善鬼と博麻が続いた。穴の中程までくると、溜まった水が腰まで浸した。木材の支柱がきしむ音を聞く度、生き埋めを意識せずにいられない。両手で周りの木枠を触りながら手探りで進む。ちょろちょろと流れる水音が耳についた。壁面からも水がしみだしている。

「ずいぶん水が溜まっている。」

「この突き当たりに大きな水脈があって、このあたりまで網の目のように細い水脈が走っています。内部に水が溜まると、土が崩れてそのうち全体が埋まってしまうことになりますぞ。」

 博麻は焦りを隠せなかった。 

 突き当たりまでいくと水が浅くなり、丸く堀広げられた部屋があった。雨水とは異なる冷たい地下水が流れ出している。壁に小さな神棚が祀られてあり、外から見える灯りはその燈明だった。部屋の奥に一抱えほどの丸い岩があった。その周りに何本もの松杭が打ち込まれてある。

「もう出来ているではないか。」

 善鬼は装置が完成していることを知った。杭を抜くと丸い岩が外れ、溜め池の栓を抜いたときのように大量の水が湧きだしてくる仕掛けである。

「これほど地盤がゆるんでいるときに、なお大量の水を流すのは問題だぞ。築山全体が崩れることはないだろうか。」

 ナガは腕を組んで考え込んだ。

「左様、土砂崩れを引き起こすかも知れません。しかし、それは小さなものに留まるでしょう。築山は丈夫な岩盤の上にある、符は必ず働く。」

 博麻は自分の設計に自信を持っていた。

「このまま水穴が崩れてしまうと、もはや建て直しはきかない。ナガ殿、今からやりましょう。」

 博麻はこれ以上の議論をする時間はないと考えていた。ナガに反対を唱える理由はない。

「よし、それじゃあやろう。」

 三人は丸い岩の周りに打ち込まれてある杭をそれぞれが掴んで揺すった。杭を揺らす度、水が噴き出してくる。水圧が普段よりもはるかに上がっている。

「気をつけなされ、吹き上げてくるかもしれない。」

 博麻がそう言い終わる前に、栓の役目をしていた岩が外れ、どっと音を立てて冷水が吹き出した、かすかな明かりを投げかけていた燈明も水に飲み込まれ、あたりは真っ暗になった。

 水の勢いは予想よりも強かった。あっと言う間に胸元まで水があふれ、狭い穴の中で渦を巻いた。

「まずいぞ、博麻殿、ナガ、気をつけろ。」

 善鬼がそう叫んだのを最後に三人は水に飲まれた。

ナガは冷たい水に揉まれ、強い流れに二転三転としながら隧道を流された。あっという間に入り口から吐き出されて山の斜面に転がった。足場からも転落して、したたかに体を打ち付け、ナガは水を吐き出してむせた。善鬼がナガの側に飛び降りてきた。

「ナガ、大丈夫か。」

 ナガは体中が痛んだ。水に押し流されてあちこちに擦り付け、打ち付けたせいである。ナガは一通り手足を動かして周りを見回した。

「ああ、かすり傷だよ。博麻さんはどこだ。」

 山の急斜面に小さな滝のような水の流れが出来ている。博麻の姿が見あたらなかった。

「ひょっとして、隧道のどこかにひっかかってるんじゃないだろうな。」

 ナガの言葉を待たず、鬼は水の流れに逆らって飛ぶように穴に戻っていった。ナガも体の痛みをこらえて丸太を組んだ足場まで這い登った。水の勢いで足場が崩れそうになっている。

「ここはもう危ない。あちらへ。」

 土師氏の若者がナガを引っ張り、急斜面から突き出た松の大木の根元にナガを運んだ。

 善鬼はほどなく戻ってきた。両腕に博麻を抱きかかえている。

  「溺れたんだ。水を吐かせよう。」

 ナガは博麻を地面におろさせ、急いで博麻の体に馬乗りになった。

 ナガは博麻の胸板に手を乗せ力を込めた。その場所が、ぐにゃりとへこんだ。

「これは、、。」

 ナガは博麻の胸板が粉々に砕けていることを知った。博麻の顔は血の気を失い乾いた土の色に変わっている。 

「博麻さん。」

 ナガは博麻の体に生気が宿っていないことを感じた。

「善鬼、どうにかならないか。」

 善鬼は悲しげに首を振った。

「ちきしょう。こんな簡単に死んでしまうのか。」

 ナガは雨に打たれながら、ぬかるんだ地面に突っ伏した。土師の一党が集まり、博麻の亡骸にすがった。

 善鬼は山を仰いだ。

「ナガ、それに土師一党の者ども。あれを見よ。」

 激しい雨にかき消されつつも、築山の周囲に淡い光が浮かび上がっていた。それはまぎれもなく清浄な霊光だった。

「符は出来上がった。博麻殿は満足している。」

 ナガは、博麻の亡骸の側に、淡く光るもう一人の博麻の姿を見た。その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。

「博麻さん。またどこかで逢おう。」

 ナガの呼びかけに答える前に、その博麻は姿を消した。  

 

 小角は囚獄司の牢に座し、瞑目していた。

「御上人。」

 聞き慣れた声であった。小角は、格子の向こうに鬼の目が光っているのを見た。

「おお、善鬼か。」

「元気そうですな。」

「うむ、牢番はどうした。」

「少しの間、眠ってもらいました。」

「そうか。」

 頑丈な木枠越しに見る小角は、ずっと痩せたように見えた。

「さぞや、不自由でございましょうな。」

「静かでよい。」

「符は出来上がりました。博麻殿は実によくやった、清浄な気が山から流れ込んでくる日も近いでしょう。」

「そうか、博麻と土師の一党にくれぐれもよろしく伝えてくれ。」

「博麻殿は亡くなりました。」

「何。」

「水に飲まれてあっと言う間の出来事でした。」

小角の眉間に深い皺が形作られた。

「惜しい。まだ若いというのに、儂が代わってやるべきだった。」

「博麻殿は満足していた。私にもその姿が見えた。」

「そうか。」

 小角は合掌して博麻の冥福を祈った。

「博麻が死に、浄智も山を折りだ。儂の周りから一人ずつ姿を消していく。いずれは別れが来るものと知りながらも、やはり寂しいものだな。」

「気の弱いことをおっしゃいますな。新たな出会いもありましょう。また、他にも多くの弟子が御上人を必要としていることも忘れてはいけない。」

「うむ。つい昨日、広足が来たぞ。顔つきがまるで変わってしまっておった。気に病むなと言うたが、広足にも辛い思いをさせた。年を取り、儂も知らぬ間に頑迷になっておったのだ。」

「それはやむを得ないこと。それよりも、ナガが外で待っております。御上人を外に連れ出すようにナガに言われてきたのです。」

「何じゃと。」

「賀茂郷の者全員を連れ出す手はずになっております。」

 小角は、初めて楽しげに笑った。 

「ナガとお主は愉快じゃ。」

鬼は小角の笑顔を見て元気付いた。

「では早速に。」

善鬼が木枠に手をかけると、みしりと音がした。力任せに引きむしるつもりいる。

「やめよ、儂は残る。」

「ナガは、全員を引き連れて村に帰ると言っていますよ。妙鬼もナガの言うことはよく聞くのです。われらが力を合わせ皆を連れて帰る。その準備は出来ています。」

 小角は首を振った。

「必要ない、このようなところでも食事が出る。義覚のはからいで沐浴もできる。朝命をないがしろにすることは避けたい。」

「しかし、ナガは朝命そのものを撤回させるつもりでいる。」

「いや、儂はこのままでよい。賀茂郷の者だけを返してやれ。善鬼よ、もう帰るがいい。今後、ここに来てはならん。」

「なぜです。」

「このようなところに押し込められることになったのも、何かの因縁であろうと思う。儂はこの場所をすべての罪業を清める場所とさだめて、思いに耽っている。」

 善鬼は、牢のすみに置かれてある桶を見た。桶には汲み置きの水が入っている。

「では、せめてここに持参した水をお飲み下さい。谷で汲んだばかりで、まだ冷たい。」

 小角は善鬼が差し出す竹の筒を有り難そうに受け取り、少し飲んだ。

「さわやかな水じゃ。」

 小角は竹の筒を返し、鬼に向かって合掌した。

 善鬼は姿を消した。

 ナガと妙鬼が塀の外で待っていた。 

「うまく行きそうか。」

「段取りは付いている。しかし、御上人にその気がない。他の村人だけを助け出してやれと言うのだ。おまけに、もう来るなと言われた。」

「頑固だなあ、なんで出ないんだ。」

「牢獄を罪業を清める場所にするのだそうだ。」

「俺には偉い人のやることはわからんよ。」

「御主は知恵者ではないか。」

「どうだかな、俺なら外に出てさっぱりしたいとか、せいぜいうまい物を運んでくれと言うぞ。」

「村人だけでも連れて出るか。」

「そのために来たんだ。」

 ナガは村人を囚獄司から大挙して連れ出す計画を実行する事にした。  

「六十人余りも牢獄に押し込めて、何日になるんだ。全く関係のない人たちじゃないか。刑部省のやることは全く納得できない、全員連れ出して目にもの見せてやる。」

 善鬼と妙鬼は互いに顔を見合わせて頷いた。

 囚獄司の扉が開かれた。ナガは妙鬼のあとに続いて牢獄の中に入って行った。獄卒たちは柱に寄りかかったり、床に横になって眠り込んでいる。やがてナガは、土で固めた狭い牢の中に、横になることもできないほど押し込められた村人たちを見つけだした。皆、息苦しさで憔悴しきっている。

「みんな、ここから出て、村に帰るんだ。」

 ナガの言葉を聞いて村人は喜んだ。しかし、なかに怪訝な顔つきになる者もいた。

「そんなことをして、後でお役人が攻めてきたらどうするんじゃ。」

「殺された者もいるのだぞ。」

 村人たちは互いの言葉に怖れをなした。

「あんたたちは、今、都がどれほど乱れているか知らない。五百人を越える山伏が様々な方法で暴れまくっているんだ。役人たちは手をこまねいているだけで、なんにも出来ない。村でも何人もの山伏が守ってくれるようにする。だから大丈夫。外に出よう。」 

 ナガの説得でまず若い村人が外に出た。そうなると、次々に牢から出て全員が村に戻ることになった。 

 賀茂郷の村人が忽然と牢から姿を消したことは、刑部省をさらに追いつめることになった。

 

 

 

 

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