| 西の空に黒い雲が広がっていた。雨の兆しだった。 広足は都大路を歩いた。頬の肉が落ち、目だけが険しく光っている。 ナガの指示に従ってすでに多くの山伏が都に来ている。広足は、彼らのほとんどから疎まれ、蔑みの目で見られた。 「広足よ、随分なことをしでかしたそうではないか。」 見るからに悪相の修験者が広足の前に立ちはだかった。髭を剃らず、髪は蓬のように乱れている。錫杖を持っていなければ乞食と見間違われても不思議でない、しかし、元の色さえ判別しかねるほどに汚れた着物から突きだした腕には山林修行で鍛え抜かれた筋肉がうねっていた。 「この俺に法力合戦を仕掛けるのか。」 広足は眉間に皺を寄せ、懐の独鈷に手をのばした。目の前の山伏からは、明らかな殺気が漂ってくる。法力合戦にかこつけて私刑を下すつもりなのだ。当然に予想されたことだった。 「受けてやる。」 「御主の根性を叩き直してくれよう。きえええっ。」 山伏は錫杖を振り上げて鋭い気合いを発した。広足は眉間を打ち抜かれたような気がした。足を踏ん張り、かろうじて耐えた。 都大路を行く人々が、ある者は怖ろしげに、またある者は面白い見せ物が始まったように二人を遠巻きに見た。 広足は、独鈷を取り出して口の中で呪文を唱えた。大げさに独鈷を振り上げ、猿のような叫びを上げた。ついで人の背丈ほども飛び上がり、渾身の力を込めて振り下ろす。広足はその動作を繰り返し、甲高い叫び声を上げ続けた。見物の人々にも正気を疑われるほど広足の様子は奇妙だった。 「狂ったか。広足。」 山伏は次の言葉を言うことが出来なくなった。舌がもつれ、体が石のように硬くなった。そのまま一本の木のように、あおむけに地面に倒れ込んで動かなくなった。 見物人の中にも何人かが同じ状態に陥って倒れた。 広足の金縛りの術が効いたのだ。 「物部塩古連広足だ。我と思うものはいつでもかかってこい。」 広足は愚直なまでにナガの指示を守った。それだけ言い残して広足は次の場所と相手を探して立ち去った。山伏はしばらくしてから何とか起きあがったが、巻き添えをくった見物人は一刻以上体の自由が戻らなかった。大変な迷惑である。しかしその効果は大きかった。実際に術にかかったものは、以後、広足の名を聞いただけで卒倒しそうになった。 広足は見物人を巻き添えにしながら法力合戦を繰り返した。広足の悪名はまたたくまに都中に広まっていった。都じゅうで荒々しげな振る舞いをする山伏の代表として、そして役小角を裏切った悪者として、広足は誰からも怖れられ嫌われることになった。 ナガと善鬼は水越峠の見回りを終え、道場に戻った。 義覚が框に腰掛けてナガの帰りを待っていた。傍らに無宿人のような男がひかえている。 「待ちかねたぞ。」 義覚は膝をうって立ち上がった。 「やあ、義覚さんか。」 「うむ。この男は六という、信用できる。」 六は無言のまま頭を下げた。 「都の様子はどうだい。」 「まず、御上人と賀茂郷の者たちは元気だ。刑部省に知り合いがいる。寝食に不自由のないように手を回してある。」 「うん。そうあってくれないと何もかもが水の泡だ。」 義覚は、再び框に座った。 「それから、都の様子だがな、ナガよ。まさに、都は蜂の巣をつついたようだぞ。御主が山伏に命じたことは、すべて忠実に実行されている。ある者は辻説法をして人を集め、師の話を説いて聞かせている。芝居の真似をして見せている者たちもいる。これが人気がある。役人も足を止めて見入っているほどだ。また、ある者は暴れ回り、大変な嫌われようだ。おそれられているという方が正しいな。法力を使って騒ぐものだから、補吏どもの手には負えないのだ。やがて、補吏に代わって兵士が集められることになるということだ。」 「うん、滑り出しとしては上々だ。」 「それから、広足だ。あ奴めは、御主から法力合戦をやるようにいわれたらしいが、まさに狂ったように勝負を仕掛けている。都は、このところ山伏だらけだ。相手には不自由しない。私も、広足が大路を歩いているところを、つい昨日見かけた。都ではたいそうな有名人になったが、まるで鬼のような形相になっておった。あわれな奴よ。」 「よし、この調子ならいける。」 「他にもある、六から直接に聞いた方がいいだろう。」 六は、ナガの顔をずっと眺めていた。 「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。」 六はナガから視線をはずして義覚に向き直った。 「あのお若い方の、ここんところに何かがぼうっと光っているように見えて仕方がないのですが、」 六は自分の眉間のあたりを指差して尋ねた。 「いったいあれはなんでしょうか。」 義覚が珍しく大声で笑った。 「六、あれが見えるのか。」 「へえ、なんとなくですがね。」 「ほほう、お主に霊眼が備わっていたとはな。天は意外なところに粋なはからいをするものだ。」 義覚は鬼の姿も見せてやることにした。 「それでは、あそこに御主をじっと見ている者がいる。見えるか。」 義覚は、ナガの後ろにしゃがんでいる善鬼を指差した。むろん姿を消している。 六は義覚の指さす方を見た。 六の肌がみるみるあわだっていった。六の目には、なにやら恐ろしげなものが映っていた。何かが自分の顔をじっと見つめているような気がしてならないのだ。力を込めて目を見張ると、いびつな形の大男がしゃがむ姿がおぼろげに見えた。 鬼だな、六はそう結論した。 「何が見える。」 「、、、、、。」 「見えぬか。」 「みえるような、みえないような、いや、なんにも見えません。見えるはずがねえんだ。」 六は鳥肌が立った腕や首筋をごしごしとこすった。あんな怖ろしげなものは見えない方がいいと思った。 「そうか、無理に見なくてもいい。」 善鬼は、なにやら疎外された気分になった。 「おい。こっちを向け。」 地の底から響くような声が聞こえて、六は飛び上がった。六は覚悟を決めて声の方を見た。修羅場をかいくぐってきた無頼の根性を見せたのだ。 今度ははっきりと見えた。 六の目は飛び出しそうになった。 「六と言ったな。よく見ておけ。」 「へえ、これは、また豪勢なおかたで。」 「ひとは私を善鬼と呼ぶ。おぼえておけ。」 「へえ、それはもう、肝に銘じました。終生わすれません。」 六は神妙な顔つきで頷いた。少しでも逆らうと喰われてしまう気がしたのである。 「話を続けろ。」 「へえ。」 六は、密偵の役割を果たしている。この役目が性にあっているのか、従来の自堕落な雰囲気がかなりなりをひそめている。 「国見連虫麻呂、例の役人ですが、ずいぶんと阿漕な野郎だったようで。」 虫麻呂については、六とその配下によって調査がなされていた。 「虫麻呂は当麻にある自宅の他に、都にも秘密の家を構えていました。ずいぶん貯め込んでいたそうです。」 ナガは冷徹な表情になった。 「それは押さえただろうな。」 「へえ、義覚様のほうで手を回してもらっております。」 義覚がかわって説明した。 「山伏が乗り込んでいって押さえた。虫麻呂の手下だった者や、囲っていた性悪女がその蓄財を狙っていたようだが、虫麻呂が役人であるだけに手をつけかねていたのだ。」 「よーし、虫麻呂にはもう一肌ぬいでもらう。」 「どうするのだ。虫麻呂は死んだぞ。」 「虫麻呂と関わっていた性悪どもを釣り上げてやる。餌は虫麻呂からの贈与だ。適当に書類を偽造して手渡してやれ。日頃役所に関わりのある性悪どもだ。目の色を変えて権利を主張するぞ。」 義覚はナガの言おうとすることを察した。 「ここでも紛争の種をまくということか。」 「役所に訴えるようにしむけるんだ。虫麻呂の禄からみて不正な蓄財であることはすぐに明らかになる。このもめ事にも、必ず役所を巻き込むんだ。」 「謀略とは手の込んだものだな。」 ナガは冷たい表情で頷いた。 「朝廷は少しずつ揺れる。案外にもろいものだぞ。」 空から、一粒二粒と大粒の雨が降ってきた。遠くで雷が鳴り、やがて激しい土砂降りになった。 同じ頃、刑部省の囚獄司に太政官府の高官が到着した。今にも雨が降りそうだった。 囚獄司の役人は思わぬ高官の到来を揉み手をしながら出迎えた。高官の名は藤原不比等という。 「これは、これは。不比等様。」 不比等はまだ若い。しかし、良家に生まれ、生来の頭の鋭さと気骨によって既に揺るぎない地位に居座っている。 「小角にあう。」 不比等の一言は、幾重にも閉じられた囚獄司の扉を一斉に開かせた。不比等は暗い廊下を肩で風を切って歩いていった。やがて、厳重な石造りの牢獄に行き着いた。不比等は役人を下がらせ格子をはさんで小角と向き合った。 小角は石の上に静かに座っていた。 「藤原不比等である。」 不比等は傲然と名乗った。 不比等は目の前の小柄な年寄りが自分の名を聞いて平伏しないことが不快だった。また、高名な役行者であることが疑わしく思えた。どこにでもいる年寄りが座ったまま眠り込んでいるように見えたのである。 「聞いているのか、お主が役小角か。」 「そうじゃ。」 小角は小さな声で答えた。 「都で山伏どもが暴れている。お主の差し金か。」 「いや。」 「では、誰が糸を引いている。」 小角の脳裏にナガの顔が浮かんだ。それ以外には考えられなかった。 「見当はつくが、確かではない。」 不比等の端正な顔に酷薄な笑みが浮かんだ。 「その名を言え。言わねば締め上げてもよいのだ。年寄りでも容赦はしない。」 小角は合掌し黙り込んだ。 「それとも、山伏どもに手を引くようはからうか、そうすれば罪一等を減じてやろう。」 小角は、不比等を無視した。 不比等は無視されることに慣れてはいない。朝廷においても若いとはいえすでに重鎮の部類に入るのだ。冷たい怒りが不比等の中に湧き起こってきた。 「捕らえた者の中に白専女という老婆がいる。九十に手が届くとは長生きなことよ。それがお主の母親であることは既に調べがついているのだ。お主がそのような態度でいるのなら、責めは母親に代わって受けてもらう。」 不比等は次々に矛先を替えた。小角は静かに目を開いた。 「やめておくがいい。」 不比等は交渉の手がかりを掴んだ気がした。 「では何もかも話せ。そして私に協力せよ。都が乱れることで天子様も心を痛めておられるのだ。」 「今も言ったとおり話すことなどない。儂は若い頃に母を捨てて山に入った。その後、いたわりの手を伸ばすことがあっても、心は既に世を離れている。母を救うために心を乱すことはない。また、母は儂のために喜んで死ぬだろう。」 「何。人の道に外れた奴め。」 「それは、おまえのほうではないのか。」 「無礼な、言葉を改めよ。」 「そうか、ではそうしよう。しかし、山は身分も名も関わりのない所であることは知っておくがいい。おまえ様が高い身分にあっても何らかかわりがないのだ。これは、おまえ様のために申し上げる。肉親の情を駆け引きに使うのはやめた方がよい。因業を悪くし、この先、骨肉の争いを引き起こすことになる。業を重ねるのは、怖ろしいことだ。」 不比等はつかみどころのない答えに苛立った。 「おとなしく言うことを聞けば、賀茂の者どもを放免してやる。断れば、捕らえてある他の者を皆殺しにするぞ。」 小角の鋭い視線が不比等を捕らえた。不比等は小角の小さな体が何倍にも膨れ上がったように感じた。 小角は、ついに厳しい口調で不比等を叱りつけた。 「愚か者め。高い身分にあぐらをかき、何でも口先一つで思い通りになると思うか。重い罪業を背負う腹があるのならそうせよ。しかし、その前に儂がお主を呪殺してくれよう。」 小角は、不比等を睨み付けたまま印を結んで呪を唱えた。不比等は体の自由を奪われ、次第に息苦しくなっていった。 「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如電、応殺如是感。」 小角がつぶやいた呪文は、不比等の耳の中でわーんと反響し、鼻の奥に金属的な臭いが満ちてきた。小角が本気であることが明白となり、不比等の恐怖は極限に達した。 「ま、待て。」 不比等は、手を突き出し、かすれ声で言った。不比等は脅しのつもりだった。朝廷内では最も有効な方法でも、小角相手には無力である。 「まず私を呪い殺すのはやめよ。他の者に手を出すつもりはないのだ。」 小角は再び目を閉じた。不比等は、都の平安を取り戻すために小角を使うことは手に余ると判断した。それに、呪殺は免れたかった。 「帰る。」 不比等は別の方法を考えることにした。 |