| ひどく雨の降る夜だった。 「近いな。」 板張りの家の中で、ナガの父がつぶやいた。 ナガは、今年十四歳になる。稲妻は米を実らせると信じられているため、雷がやってくることは怖ろしくもあったが吉兆でもあった。 「イカズチ、見たいな。」 十四にしては幼いしゃべり方でナガが呟いた。 ナガは雷神の姿を見てみたかった。雷雲に乗って虎の皮の褌を締めた姿をナガは想像した。部屋には小さな灯明がぼんやりと光っており、明滅する稲光があちこちの隙間から青白く差し込んでくる。 父は、乾燥させた薬草を分厚い手でもみほぐしながら言った。 「近くで雷の落ちるところを見たことがある。しかし、雷神の姿などは見えなんだよ。」 ナガの父はタノトという。タノトはゆっくりと、言い聞かせるようにナガに語った。 ナガはゆっくりと喋ってやればきちんと理解する。 「昔、わしの見ている前で近所の年寄りが雷に打たれた。あれは稲の刈り入れの頃だったよ。雷が鳴って雨が降りそうなので家に帰ることにした。途中、まだ仕事に精を出しているじいさんを見た。青白い筋が、じいさんの頭と空の間に光った、と思ったら、どーんと大きな音がした。」 ナガはこの話を幼い頃から何度も聞いていた。しかし、何度聞いてもナガには新鮮だった。 「わしは最初、何が起こったのかわからなかった。ともかく、そこに行ってみることにした。じいさんは少しの間立ったままだったが、やがて、ぱたりと田んぼに倒れた。いろいろと教えてくれた親切な人だったがな。抱き起こそうとしたら、頭と、つま先から湯気が出ておった。二言、三言何か言ってじいさんは死んだ。」 ナガは、ぞくぞくしながら話を聞いた。 「神や仏は人の目には見えんと思う。都に雷神の姿を見た人がいると聞いたが、わしには信じられん。」 都とは藤原京をさす。持統天皇八年から和銅三年、わずか十六年間の都である。 タノトは薬草と薬石の扱いに長けていた。これによって、道理を伴った物の見方を身に付けていたのだろう。何につけても辛抱強くナガに語り聞かせ、物の道理というものを植え付けようとしている。 「おれ、イカズチはいると思う。見てみたいなあ。」 「実際に、目に見えるものであればわしも見たいが、、。」 タノトがここまで話したとき、板の壁を震わせる爆発のような轟音が響いた。 「庭に落ちた。」 ナガは飛び上がった。父が止めるのも聞かずに、木戸を開け、土砂降りの雨の中に走り出た。暗がりのなかに柿の古木全体が青くぼんやりと光って見える。太い幹に裂け目が走って、そのすきまに小さな黄色い炎が見えた。大粒の雨に打たれながら、ナガは不思議な美しさを感じた。 次の瞬間、ナガの視界は真っ白になった。耳は奥の方でボンと鳴ったきり聞こえなくなり、全身が何十倍にも膨らんだ気がした。 ナガはそのまま気を失った。 「ナガ。」 ナガが目を覚ますと、母のタニノメがナガの顔をのぞき込んでいた。 「よかった。」 ナガを含めて七人の子を産んだが、うち四人までが、はやり病ですでに死んでいる。母はこの少しだけ頭の鈍い息子が再び目を覚ましたことを心から喜び、胸をなで下ろした。 「おれ、どうなったのかな。」 ナガは、自分に起きたことがわからなかった。 「柿の木に雷が落ちた。おまえがそれを見に行った後、もう一度落ちてきた。おまえは雷に打たれたのだよ。」 タニノメの言葉でようやく納得がいった。 「まだ寝ていなさい。」 その言葉を待たずに、ナガは外に走り出た。樹齢百年ばかりの大きな柿の木だったが、幹が裂け隙間が黒く焦げていた。柿の青葉が夏の日差しを透かして緑に光っている。 ひどく傷ついたが、この木は枯れない、ナガはなぜかそう思った。 ナガの住む家は、都の西に屏風のように並び立つ葛城山の麓にある。周囲には茅が茂った小高い丘がいくつも連なっている。 ナガは家の中から様子を伺っている母に大声で言った。 「魚、捕ってくる。」 タニノメが何か叫んだがナガはもう聞いていなかった。 ナガは谷川に続く小道を歩いた。両側に背の高い茅が茂り、強い日差しに焼かれて青臭い草いきれが満ちている。茅の茂る丘の間を迷路のように走る小道である。風はあるが背の高い草に阻まれて、むっとするほどの熱気が立ちこめている。麻の着物はすぐに襟元から汗で濡れてきた。 ナガは、汗の不快さをよそに、かつてないほど開放された気分を味わっていた。 いつも通っている小道が、なぜか足を一歩踏み出すごとに新鮮に感じられる。草の葉の形や色までが強い実感を伴ってそこにあるという気がするのだ。 夏は谷川に出かけて水浴びをし、ついでに魚をとるのが日課になっている。浅い谷川に木の枝や石を積んで罠を作りヤマメを追い込むのだ。近くの谷川には、水晶のように澄んだ水に群をなしてヤマメが泳いでいる。 茅の間に見え隠れするナガの姿を、少し離れたところから若い娘が見ていた。 娘はナガを追った。 「おーい、ナガ。」 娘は大声でナガを呼んだ。 ナガはその声を聞いて立ち止まった。娘は同族のミナだった。ナガより一つ年上で、よく一緒に遊ぶ。陽に焼けた体を弾ませながらミナが走ってきた。ミナの胸が上下に揺れるのを見るとナガは何となくうれしくなった。 「ナガ、昨日はあちこちに雷が落ちた。神の岩にも落ちて、あのおおきな岩が割れているそうな。見に行こうか。」 ミナは、ナガにもわかるようにゆっくりと、弾む息を押さえて言った。 神の岩は見上げるほどの黒い巨岩で、山岳信仰の盛んなこの地方では特に神聖な神体とされていた。 ナガは、神の岩がその中心部から三つに割れていると直感した。 「雷、おれに落ちた。」 ミナはナガが言葉を間違えているのだと思った。時折あることなのだ。 「違うでしょ。」 「いいや、打たれようが良かったんじゃないかな。」 ミナはナガがすらりと喋ったのがおかしかった。 「変なナガ。」 二人は仲が良かった。 谷川まで来ると、ナガは汗で湿った服を脱ぎ、水の中に入った。葛城山から流れてくる谷の水は夏でも冷たい。ミナも水に入り、ナガの体を手に水をすくって洗い始めた。十五歳のミナは大人だった。ナガの体を洗いながら、乳房をナガに押しつけ、ナガの股間に手を伸ばした。 この時代、人は性に対しておおらかだった。 ナガは、ミナの行為に身を任せていた。しかし、今日はいつもと何かが違う。頭の中で不思議な言語がつむぎ出されていく。 それが口から漏れて出た。 「同族どうしの婚姻や性交渉はやがて禁忌となってゆく。近親の交配によって劣性な遺伝子が増加するわけではないが社会がより社会的であるために異種族との交渉が不可欠となる。」 ミナが、上目使いにナガを見た。ナガのしゃべっている言葉がまったく理解できない。また、ナガも自分の言葉が何を意味するのか理解できなかった。 ナガは意味不明の知的作用を振り切って、行為に没頭したかった。 が、次々に妙な知識が浮かび上がってきた。 古代エジプトの王家では兄妹どうしの婚姻が優先的に行われた。こだい、えじぷと?何のことだ。これは王家の純粋性を維持するためだった。何だ?それ。ナガ本来の意識に、奇妙な雑音が混じってくる。 「俺、変だぞ。」 ナガはミナの白い尻をうしろから抱いたまま叫んだ。水に濡れたミナの肌がひんやりと触れる感触があった。ナガの感覚は、そこのみに実感があった。 「尻、ミナの尻。」 ナガはその存在感を失いたくなかった。行為が終わって、ナガは軽いめまいを覚えた。それに頭頂部がむずむずする。 ミナはナガの様子がおかしいのに気がついた。 「ナガ、どうかしたの。」 「おれの頭、ちょっと見てくれ。昨日の晩、おれは本当に雷に打たれた。」 ミナは、ナガをしゃがませて頭に手を伸ばし、髪の毛をかき分けて具合を調べた。頭のてっぺんに小指の先ほどの黒いあざが出来ている。 「ここが黒くなってる。痛くない?」 ミナは小指の爪を、その青黒いあざに押し当ててみた。 爪はそっと押し当てられたのだが、あざにぶすりと突き刺さり、骨に当たって止まった。ミナは、ぞっとした。 「べつに、痛くもなんともない。」 ナガは下を向いたまま、のんきに答えた。 「ナガ、頭に穴が開いた。」 ミナの声が震えている。ナガは不安になり、自分の指先で頭頂の傷口を調べてみた。 指先で探ると小指の爪が半分ほども収まる穴が開いており、血も出ず、痛くもなんともないのだ。 「ここだけ痛覚が消失しているのは妙だ。電気が走り抜けたのかもしれない。」 ナガの口がまた勝手に動いた。 「ミナ、おれ、なんか変だ。」 ナガはミナに不安を訴えた。ミナは青くなっていた。それでも、辺りを見回し、手近なところの木の葉や草をちぎり、口に含んで噛み始める。唾液には殺菌作用がある。それに数種類の植物を噛んで混ぜ合わせると抗生物質が生成される。それぞれが特に薬草である必要はない、そのようなことを経験的にこの時代の人々は知っていた。 ミナは緑色のどろりとしたものを指先に取りナガの傷口に盛りつけた。 「ナガ、家に帰ろう。タノトに見てもらった方がいい。」 うん、とナガは言うつもりだった。しかし、ナガの別の部分が神の岩の異変を確認しておくことを主張した。 「ミナ、傷はすぐ治る。神の岩に行こう。」 ミナは迷ったが、頭の傷を除けばナガは元気に見える。 「じゃあ、見てすぐに帰ろうよ。」 ナガはミナの手を取って山道に入った。少し歩くと、木々の間から黒い丸みを帯びた巨岩が現れた。これが神の岩である。この岩は近くの二上山から産出する。四国の讃岐地方で多く見られるため讃岐岩とか、サヌカイトと呼ばれる。 神の岩は、三つに割れていた。ナガは、その割れ方が直感的に脳裏に浮かんだ映像とまったく同じであることに驚いた。 雷電だけでこんなサヌカイトの巨岩が割れるものだろうか、という疑問がナガの内部から湧いてきた。ところが、いくつかの言葉の意味するところを本来のナガは理解できないのだ。サヌカイトは、石器に使われる代表的な鉱物の一つで、硬く、剥離するように割れ、角が刃物のように鋭くなる。試みに打ち合わせるとキーンという金属的な音がする。 ナガは、まためまいがした。 「ナガ、もう帰ろう。様子が変だよ。」 ミナはナガの様子がますますおかしくなったことが気になった。 「おれ、おかしいかな。」 「おかしいねえ。おまえの脳に穴が開いているのが私には見える。そんなやつが、元気に歩き回ってしゃべるのは本当に変だ。おかしい。」 ミナの声ではない。ナガは、驚いて声のする方を振り返った。 そこには、怪異な大男がにやにや笑いながらナガを見ていた。 大男の額には角が生えている。 「私の声が聞こえて、姿が見えるようだな。」 「おまえ、誰だ。」 ミナは、ナガが岩の方に向かってまるで人がいるかのように話すのを見、怖ろしくなった。ナガの手を取って引っ張る。 「ナガ、もう帰ろう。」 「ミナ、そこに鬼がいる。見えないのか。」 ミナは、ナガが狂ったと思った。それが悲しく、また、怖ろしかった。ミナは声を上げて泣き、元の道を走って帰ってしまった。 「おい、娘が帰ってしまったぞ。かわいそうじゃないか、行ってやりなよ。」 鬼は心配顔でナガに忠告した。 「今の俺にはおまえの姿が見える。鬼というものがこのように間近にあったことを初めて知った。」 「ほう、頭の足りない小僧だと思っていたが、人並みに喋るじゃないか。」 ナガは、まためまいがした。足がふらついて、膝を突いてしまった。 「おや、具合が悪いのか。足にも傷があるな。その様子だと、おまえはもうじき死ぬだろう。最後に私と話せたことを喜ぶがいいさ。」 「おまえは何者だ。」 「私は陽であり、善、順なるもの。」 ナガは混乱した。 「おれ、わからない。」 「なんだ、だめな奴だなあ。傷の直し方を教えてやろうと思ったが、やめた。あばよ。」 鬼は、大岩の上にひらりと飛び上がりどこかに行ってしまった。 ナガは気分が悪くなってしゃがみ込んだ。鬼の言ったことを思い出して、足を仔細に調べてみると、左足の裏に青黒いあざが出来ている。その部分はぶよぶよしていて内部の組織がずっと奥まで壊れていることがわかった。試しに枯れ枝を折り取って、その青黒い部分に突き刺してみると、ずぶり、といくらでも奥にはいっていく、しかも痛くない。 ナガの全身の体毛が恐怖と不快で逆立っていった。 俺はもうだめだ、とナガのどこかの部分が呟いた。ナガは激しいめまいを覚えて、神の岩の前で気を失った。 ナガは夢を見ていた。 強い現実感を伴った夢であり、細部まで明瞭だった。 窓のない、石造りの部屋にいた。光の入らない構造の部屋だが銀の燭台の上にろうそくが数十本も灯されているため、かなり明るい。 ナガは敷物の上に寝ており、膝を曲げ、横向きになっていた。肩が焼けるように熱い。何かが刺さっているようだ。 心臓の鼓動が次第に弱く、遅くなっていくのを感じる。目の前に見たこともない黄色い髪の、尖った鼻をした十数人の人物がひざまずいて祈りを捧げていた。どの顔もひどく悲しんでいる。見慣れぬ服をまとっているが、なぜか、そこにいるのが騎士やかつての家族であることがわかる。 ナガは、話した。 聞き慣れぬ言語だが、意味は分かった。 「わが勇猛なる騎士たちよ、妻よ、子らよ。たびかさなる戦いによって、血を見ない年はなかった。しかし、ロンウォールは守りきった。汝らに手渡す、また汝らもそうするのだ。これがスタルの掟。何か問い正しておくことがあれば、今、質問せよ。これが最後だ。」 誰も質問しなかった。王の務めはここに終わった。 「毒矢、、が効いてきた。私は逝く。」 騎士の一人が質問した。その頬は濡れて光っていた。 「死後も英霊となり、この地を守り給うか。」 夢の中でナガは答えた。 「そう願う。、、、さらば、だ。」 「・・・侯!」 最後に、ナガは聞き慣れた名前で呼ばれたような気がした。死の恐怖が襲ってきたが、それは一瞬のことだった。 ナガは別の夢に入っていった。 今度は、地平線までずっと続く砂漠が見えた。砂の上に首から流れ出る血がしみをつくっていくのが見え、傍らに、髭をたくわえ頭にターバンを巻いた若者がいた。 ナガは語った。 「シャーは、皆、戦いの中で死ぬ。息子よ、もう泣くな、その涙は、敵を皆殺しにしてから勝利の美酒に混ぜて飲め。」 「連れていく。」 若者は、首を横に振り続けていた。 「もう動けぬ。さあ、渡せ。敵に命をやるつもりはない。儂の言うことを聞かぬつもりか。」 若者は震える手で、青い宝石を柄に填め込んである三日月のように反った短剣を差し出した。 「早く行け。もうすぐ敵か来る。さらばだ。」 ナガは短剣で自らの心臓を貫いた。若者が悲痛な声で自分の名を叫ぶのを聞いた。 「シャー・アラー!」 俺の名だ、とナガは思った。 痛みは一瞬のことだった。目の前が暗くなってゆき、ついで平穏な静寂が訪れた。 ナガは目を覚ました。 ミナとタノトがのぞきこんでいる。 |