20  帰還

 

 ヌークとイピが屋敷に戻ると、エレーヌの他に二人の婦人が待っていた。公爵夫人とジョセフィーヌである。

「深刻な顔だね。どうしたんだ。」

 ヌークが婦人たちに尋ねた。

「あたし、公爵を殴ってしまってね。」

 ジョセフィーヌは拳に包帯を巻き付けていた。

「そんなことはいいのです。わたくしはエレーヌに深く謝罪しなければなりません。」

 当のエレーヌは、あまり気にしていない。市場に出かけたときなど不意に抱きついてくるような不心得者に出会うこともある。

公爵夫人はエレーヌに対する謝罪のためだけに来たのではなかった。公爵は化粧水を売却していた。現物取引ではなく、ある商人に販売権を売却したり、貴族仲間から一部代金を受け取って予約販売を行ったりしていた。その量は作り置きしている化粧水の何倍かに達していることが分かったのである。

「これはブランビリエ公爵家の信用に関わる問題なのです。」

公爵夫人はむしろ、化粧水の供給量を増やしてもらう相談に来ていたのだ。

「ヌーク、もっと作ってくれませんか。」

 公爵の横暴については計算外だったが、化粧水の不足は当然に予想されたことだった。

「いいよ。僕らはまだしばらくここに留まる。問題はその後だ。この化粧水は僕以外には誰にも作れないはずだ。非常に微妙な作業だからね。」

 両婦人は顔を見合わせた。

「困りましたね。」

「いいじゃない。これはこれでさ。あたしは十分に稼がせてもらった。」

 ジョセフィーヌは稼ぎを元手に何か別の商売を考える準備があった。それはヌークから吹き込まれた考えでもあった。

「わたくしも、デ・ビアス商会に参加させてもらおうかしら。」

 公爵夫人は、事実上、既に貴族部門の担当者に組み込まれていた。

次いでエレーヌが、ラグの様子について話した。

「うん。いい傾向だ。実は、ラグの薬が手に入ったんだよ。今から試してみたい。」

 それは、女性たちにとっても喜ばしいニュースだった。さっそく、全員の見守る中でラグの治療が行われた。

 ヌークのポケットから取り出された茶色の小瓶は、蓋を取ったとたんに強烈な臭気を発した。おまけに瓶の口から怪しげな紫色の煙が立ちのぼっている。

「おい、大丈夫なのか。それ。」

 イピは心配になった。匂いも色の付いた煙もあまりに毒々しい。

「これは、ひょっとすると。」

ヌークは訳知り顔で、にやついた。クラーケン(注1)でもびっくりして飛び上がるという幻の気付け薬。怪しい液体が五人の見守る中でラグの口に注がれた。ラグの喉が上下に動き、鼻から紫の煙を吹きだしたとたん、ぼんやりしたラグの目から七色の火花が飛び散った。

「うわー。」

 ラグは、叫び声をあげた。ラグの体から、爆発的に神々しい光が放射される。

「おおお。」

顔を天に向け、両方の拳を顔の前で握りしめるラグの姿は、超人の覚醒を実感させた。

「ラグ、どうしたの。」

 ジョセフィーヌは金切り声を張り上げ、気丈にもラグを押さえつけた。ラグは焦点の定まらない目で婦人を見た。

「我が名は、ラグ・ロム・シャヒル。汝、ジョセフィーヌ、愉しい時を与えたくれた。ほうびに雲の上から汝の生まれた町を見せてやろう。」

 ラグの声に、エコーがかかり荘厳な雰囲気が加わっていた。ヌークはそれを見て吹き出した。ジョセフィーヌは驚いてしまい、ただ目を大きく見開いている。

「よきかな。」

そう言ったとたん、ラグは婦人を連れて屋敷の上空二千メートルまで一気に瞬間移動した。

ジョセフィーヌは、文字通り雲の上にいた。西の空に日没の明かりが残り、想像したこともない風景が足下に広がっていた。雲の間に町が積み木細工のように見えている。四方を見回すと、たなびく雲が暗い空を背景にして大きな球を形成していることが分かった。彼女は、感動の嵐に包まれた。

すこしたって、ラグとジョセフィーヌが部屋の中に現れた。婦人は、笑顔がそのまま固まってしまい放心状態のまま椅子に腰掛けた。

 ラグは異常に蓄積されていた力を放出し終わって、やっと落ち着きを取り戻した。

「あれっ、元に戻ったのかな。」

 正常なラグの様子にエレーヌは歓声を上げた。イピも公爵夫人も大いに喜んだ。

 実はラグには、そのあたりの事情が正しく飲み込めていなかった。彼は、つい余計なことを口に出してしまった。

「僕に何かしたのかい。もう少しで自分の力で回復するところだった。心理的に自分を再統合するいい訓練になったよ。別に、助けは要らなかったんだ。」

 これを聞いて、ヌークはむっとしてしまった。イピと女性たちの顔にも、ありありとした非難の色があった。五人は、それぞれ身を乗り出してラグの顔を見た。

 ラグは、五つの怒った顔を見て、何か非常にまずいことを言ったと思い、口を閉ざした。

 

 派遣実習の残された期間はあっという間に過ぎていった。

三人は、サン・ジェルマンに関する意見を交換し、早めに派遣実習のレポートをまとめ上げていった。ゼーランドに戻った後、新しい課題として、コイルマンについての調査を始めることも決めた。ラグとヌークはイピよりも早く戻ることになる。その点でイピは少し得をした気分になっていた。一人で地球に残る日々は特別休暇と同じだ。

ラグがゼーランドに戻る日がやってきた。朝方、エレーヌが庭の掃除をしていると、ラグがそっと庭に立った。

「もう帰らなくてはならない。」

 エレーヌは、この日がくることを忘れていたかった。すぐに涙が出てきてラグの顔がはっきり見えなかった。

「エレーヌ、僕は心から君に感謝している。君が望むならどんなことでもかなえよう。」

 ラグの心からの気持ちが伝わったが、エレーヌは涙で言葉に詰まり何も言えなくなってしまった。

「エレーヌ、その人生がよい巡り合わせで満たされるように。」

ラグは懐から玉を取り出し、庭に軽く投げた。玉は陽光にきらめいて緑色の放物線を描き、庭石の上に落ちた。エレーヌはその玉が割れるのを見た。

「玉が割れたわ。」

ラグがいたところを振り返っても、そこにはもう誰もいなかった。

 ヌークは、女性たちに何かを残してやろうと思い、いろいろと考えを巡らしていた。

 ジョセフィーヌが、いつものように商品の受け取りに来た。

「ラグは帰ったよ。僕もそろそろ戻らなくてはならない。」

 ジョセフィーヌはラグから別れのキスを受けていた。

「知ってるわ。あなたも元気でね。」

 ヌークは稼いだ銀貨のすべてを大きな木箱に貯め込んでいた。

「僕たちには必要のないものだ。あれを上手に使って欲しい。エレーヌと公爵夫人のこともよろしく頼む。」

「わかった。」

 ジョセフィーヌは精一杯の努力で笑顔のまま見送ろうとしていた。

 ヌークは懐の玉が急速に熱を帯びるのを感じた。大金を誰かに与えるだけでは、このようなことは起きない。ジョセフィーヌは木箱の銀貨を運用して何らかの大事業を為す事が伺えた。

「君の活躍が楽しみだよ、ジョセフィーヌ。」

ヌークは懐から玉を取り出した。それは今にも燃え上がりそうな赤い色に変わった。

「さようなら。」

 ヌークは指を鳴らした。赤い玉が粉々に砕けて床にこぼれ、消えた。それと共にヌークの姿も婦人の前から消え去った。

イピは、残された時間を人影のない森や湖で時間を過ごした。それはイピにとって静かな楽しみだった。夜は屋敷に帰るが、エレーヌやしょっちゅう顔を見せる婦人たちと交わす言葉は少ない。イピは、意識的に彼女たちを避けようとしていた。

宙導師候補生は、必要以上に人の運命に関わってはならないという原則がある。今回の派遣実習では、いろいろとその原則違反をしてしまった。イピはこれ以上の干渉を回避するつもりでいた。そうしたイピの思いをよそに、ヌークは多分に実験的な置きみやげを残していた。一足先に帰る前に、ヌークは幻覚藻を封じ込めた瓶をイピに手渡していた。

ヌークはこう言った。

「イピ、ブランビリエ夫人を運命の呪縛から解き放ってやりたいなら、この瓶の蓋を取ってベルサイユ宮殿の水源に投げ込め。藻は周辺の湖水に繁殖し、やがて死滅する。その間、貴族たちはあらゆる苦痛に鈍感となり幻想の中に遊ぶことだろう。それが現体制の滅亡を遅らせる最も効果的な方法だ。彼女は歴史のキーウーマンだ。これぐらいやらないと運命の転換は図れないぞ。」

イピにはそういう考えはなかった。候補生規則でそうなっている。ところが、ゼーランドに帰る日が近づくにつれてヌークの言葉がイピの心を重くしていった。

実習終了まで、三日となった日、まだ明るいうちにイピが屋敷に戻ると、エレーヌはイピの好きな果物のパイを焼いているところだった。

「エレーヌ、二人が居なくなって寂しくないかい。」

「大丈夫。二人の顔は目を閉じればいつでも浮かんでくるもの。ジョセフィーヌも公爵夫人もとても良くしてくれる。」 

エレーヌの瞳に快活で健やかな女性の強さが見えた。イピの目には、喜びや悲しみの未来の影が映る。森の狼の姿にやがて滅び行く悲しみを見たときはつらかった。幸せになりきれない人々の悲しみなども、ここではたくさん見てきた。しかし、今のエレーヌにはそれがない。

ラグあたりが、強力なまじないをかけていったようだ、イピはそう思った。

  エレーヌは、イピの両手をとって励ますような口ぶりで言った。

「イピ、あなたに会えて本当によかった。ありがとう。向こうに帰ったら、ラグとヌークにもそう伝えてね。私は、あの二人から、すばらしいものをたくさんもらったのに、ありがとうの一言も言えなかった。三人とも必ず宙導師になってね。」

 イピはエレーヌに会えてよかったと思った。

 ぐずぐず、くよくよするのはやめた、早速ゼーランドに戻って、新しいテーマについて調査しなくてはならない。

  イピは、エレーヌに祝福を与えた。

「エレーヌ、喜びとともにゆけ。いとしき子、さらば、さらば。」

イピは、黄色い玉をテーブルの上に置き、一瞬で術を発動して大きく開け放った窓から飛び出した。イピが飛び出した直後、分厚いカーテンが大きく風をはらんで窓をおおい隠した。エレーヌが窓に駆け寄ると、轟音とともに空を飛ぶイピの姿がみるみる小さくなり宮殿の上空で一度旋回するのが見えた。

イピは幻覚藻の胞子を宮殿の湖水にばらまいた。イピがはるかに遠く飛んで行ってしまうと、テーブルの上で黄色い玉が真っ赤に変色し静かに割れて消えた。

 

 

注;クラーケン 周囲が数キロもあるという海の巨大生物、身動きせず島のように浮かぶ  

 

 フランス革命は、千七百八十八年の食料暴動に端を発し、おおむね十年の期間で完了する。文中で処刑されるはずだったマドレーヌ・ド・ブランビリエが断頭台に上ることがなかったのが、宙導師候補生による運命干渉によるものであるのかどうかは不明。エレーヌはジョセフィーヌの養女となり、デ・ビアス商会はエレーヌ・ド・デビアス会頭の手腕により国内一の巨大企業に成長し、その死とともに没落した。

 

 

 

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