13    聖者

 

 イピとエレーヌは轟音とともに空を飛んだ。わずか数分のうちに数十キロを移動する速度が出ている。エレーヌにイピの精神の高まりが伝わり、それがまたイピに伝わるため、相互に影響しあってイピの高速移動の法がうまく制御できなくなってきた。このままでは遥か彼方まで飛んでいってしまう。

 ベルサイユの広大なオレンジ園が見えてくると、イピは速度を落とすことにした。

「エレーヌ、少し落ち着け。」

「だめ、だめ、もっと、もっと。」

「しようがないなあ。ほら、下を見てごらん。もう、宮殿が見える。あの近くに降りるんだ。」

「お願いだから、もうちょっと飛んで。」

 エレーヌはイピにしがみついて叫んだ。イピは宮殿の周囲を半径五キロばかりの円を描いて一周してやる事にした。上空から、庭園内を縦横に走る運河が見え、あちこちに湖水が配置されて鏡のように光っている。森の中に離宮があり、荘厳な宮殿も見えた。

 ちょっとやりすぎたかな、とイピは思い始めている。町のあちこちに小さな人影が見える。それが、どうやら自分たちの方を見ているようなのだ。その数が次第に増えている。

 町の人々は青空に轟音が響き、人のようなものが飛んでいるのを見上げていた。それは鳴り物入りの奇跡だった。イピは人々の視線から逃れることにした。

「やっぱりまずいよ。エレーヌ、もっと、しっかりつかまれ。地上に降りるぞ。」

 イピは、宮殿から少し離れた、ひとけの無さそうな森を選び、一気に突っ込むことにした。人々が自分たちの姿を見失ってくれることを期待してのことだ。イピは慎重に狙いを定めて、急降下した。地表があっという間に接近した。木々の枝は避けようがなかった。太い枝を何本か吹き飛ばし、どん、という鈍い音とともにイピとエレーヌは着地した。空気の玉は地表に、丸い、半径三メートルばかりの窪みを作った。小爆発に近い衝撃波が発生して、周囲の木々の小枝が折れて飛び散り、その地点から最も近い屋敷のガラス窓には、何十枚か、ひびが入った。

 着陸は成功だった。空気の層がクッションとなり怪我もない、見上げていた人々の視界からはうまく逃れたはずだった。しかし、イピたちの進行方向の延長線上には一部始終を見た人物がいた。

 ブランビリエ公爵夫人は低い雷鳴のような音を聞いて窓に近寄った。空は青く晴れ渡っており、雷雲が近づいている様子はない。そのうちに、何か鳥のようなものが、空を、すばらしい速さで飛んでいるのを見つけた。夫人は伝説のシャドラク鳥(注1)が飛んでいるのかと思った。ところが、砂粒ほどに見えたものが急速に大きく見え始めた。ブランビリエ夫人の屋敷に向かって一直線に接近している。それが、人間であることを確認して夫人は心臓が止まりそうになった。まさに、奇跡。生涯にわたって一度見るかどうかの奇跡だった。公爵夫人はその森を含めて広大な敷地を所有している。イピたちはまさにその森に突っ込んだのだ。

「ふう。うまくいったぞ。エレーヌ、大丈夫かい。」

 イピは消耗していた。大丈夫?と聞いて欲しいぐらいだった。

「私は、だいじょうぶ。すごいわ、イピ、、、、、。いいえ、イピ様と呼ぶべきだわ。本物の聖者だったのですね。」

イピの術が解かれたことで、頭の芯が痺れるような集中力は伝わってこない。そのかわり、エレーヌの心の中に、イピの意識の一部が根付いた。

「よせよ。僕らの世界では、誰もが何かの術を使えるんだ。」

「それは神の国です。あなたは神の子です。」

「ちがうんだが、、、、。まあ、いいさ。そのうち落ち着くだろう。」

 イピは少し休みたかったので、近くにあった木の幹を背にし、寄りかかって座った。エレーヌはイピの前に跪いて祈りを捧げた。

 さて、ブランビリエ夫人は屋敷の高価なガラスに、びしりと、ひびが入ったことを怒ったか。否、夫人は自分が見たものが幻でなかったことを証明するものとして喜んだ。急いで執事を呼び、自ら庭に出て、奇跡の体現者を見なければならないと考えた。そして、願わくば、歓喜の内に祝福を受けなければならなかった。

「そのように走られては危のうございますよ。」

 執事はふらつきながら夫人の後を追った。夫人は美食の結果、太り気味ではあったが足は丈夫だった。

「早く行かなくては。急ぐのです。」

 百メートルばかりの距離を二人は駆けた。そこで、夫人は、可憐な少女の祈りを受け、大木の幹に寄りかかって座る聖者を目にした。黒い髪は、聖書の、東方からきた四人の聖者を思い起こさせた。飛び散った木の枝や地面の窪みは、聖者が天から落ちてきた明らかな証拠だ。何よりも、若者の雰囲気が神聖そのものだった。

 ブランビリエ夫人は、エレーヌのそばに駆け寄り、同じように跪いた。祈りを捧げている少女と自分を同列に置きたかったのだ。執事は息を切らせながら夫人に追いついて胸の前で十字を切った。

「聖者よ、願わくば我らに祝福を垂れ賜わんことを。」 

 イピは、目の前の貴婦人に返事しようと身を起こした。そのとき熱くなった胸ポケットが肌に触れ、イピはどきりとした。胸ポケットにはアヒムサカ大老からもらった玉が入れてある。素手でつかむとひどく熱くなっていた。取り出してみると、それは鮮やかな黄色に変色していた。

「おお、なんてこった。たった数分で黄色になってしまったぞ。」

 イピは、それをゼーランドの言葉で語った。ブランビリエ夫人はその聞き慣れない言葉を、エロイ、エロイ、オリ、エ、リ、サバクタニと聞いた。

 ヘブライの神の子の言葉であった。婦人と執事は改めて十字を切り、地面にひれ伏した。

 イピは、少なくとも時間だけは節約したと自分に言い聞かせて、これ以上人が集まらない内に逃げてしまうことにした。さっと立ち上がって、エレーヌの手を引く。

「エレーヌ、ずらかろう。」

 ブランビリエ夫人は、目の前の聖者が、期待に反するしゃべり方をするのが耳に障った。聖者は、もっと文語調のしゃべり方でなければならない。しかも、身のこなしが素早すぎる、天を降り仰ぐとか、ゆっくり動くとかして欲しいのだ。イピがエレーヌを引っ張って立ち去ろうとするのを、夫人は押しとどめた。

「聖者よ、お待ちください。」

「おばさん、僕は神の子でも預言者でもないよ。」

「おばさん?」

 夫人の中で聖者のイメージにひびが入った。

「でも、あなたは空を飛んでいた。あれが奇跡以外の何でしょう。」

「あれは、術なんだ。ごく技術的なものでね。」

 あっさりとした言い方に夫人は何となく納得してしまった。目の前の若者は特別かも知れないが、ごく普通に話すほうがしっくりする。

「もう行かないと。人を捜してるんだ。」

「誰をおさがしです。」

「サン・ジェルマン伯爵だよ。僕の友人もそのために町に来ているんだ。」

 ブランビリエ夫人のなかで三人の若者が一つの枠の中に収まった。ヌーク、ラグ、そして目の前の一人。

「もしかして、あなたの名はイピ・ユームですか。」

 イピは驚いて夫人の顔を見た。

「なぜ、僕の名を知ってるんだい。」

「ヌークとラグは、私のお友達ですの。あなたのことはヌークから聞いています。」

ひとつの運命の輪がこの夫人を中心に回っている。この夫人は歴史のキー・ウーマンなのだ。イピは目を見張って夫人を見た。丸顔で頬も唇もふっくらしている。笑うと小さな白い歯が綺麗に並んでいた。夫人は鮮やかな緑色の瞳を持っており、それは極めて純真な精神を伺わせた。イピは力を込めてその瞳の奥をのぞき込んだ。緑の虹彩の中央、暗い瞳孔の奥にイピの視線が注がれる。夫人はイピの漆黒の瞳に吸い込まれる思いがして、激しいめまいを覚えた。

 イピは、数年の内にブランビリエ夫人が断頭台に引き上げられる姿を見た。すでにブランビリエ夫人の瞳の奥には、時間を飛び越えて自分自身の運命の映像が焼き付いている。もちろん、夫人がそれを見ることはない。革命は破壊と憎悪の対象を必要とする。美食に肥え太り、広大な屋敷を所有するこの夫人が革命の火の手から逃れるすべはない。あと五年ばかりで、この夫人の命運は尽きる。千七百七十年か七十一年か、と思いを巡らせながら、イピはその思いを胸にしまい込んだ。それは努力を必要とした。イピの視線から解放されて、夫人はほっと一息ついた。イピは気を取り直して尋ねた。

「そうか。で、おばさんの名は?」

「マドレーヌ・ド・ブランビリエ。」

「マドレーヌか、可愛らしい名前だね。」

 夫人は少女のように微笑んだ。歳を加えてもみずみずしい精神を保っている、とイピは思った。革命は民衆を搾取する悪魔的な存在を破壊するばかりではない。おそらくは、全く無垢で純真な魂の持ち主をも一緒に滅ぼす。また、革命に参加するものが常に正義と博愛に燃えているわけでもない、嫉妬する者、どんな状況に置かれても不満の絶えない者、ただ破壊を好む者などが積極的に参加する。公爵夫人は革命の餌食となる運命を背負っている。

 夫人はイピの思いをよそに、すっかり彼のファンになった。重々しい聖者としてではなく、気軽に話せるお友達になれそうな気がした。

「マドレーヌと呼んでね。私をそう呼ぶのは国王だけなのよ。」

 ブランビリエ夫人は太陽王と呼ばれたルイ十四世の孫、ルイ十五世の娘なのだ。

「あ、そう。じゃあそう呼ぼうか。」

「そちらのかわいいお嬢さんは。」

「エレーヌ。」

 これは、エレーヌ自身が小さいがはっきりした声で答えた。

「そう、エレーヌね。あなたも私とお友達ね。」

 この一言でエレーヌの運命の羅針盤は百八十度、いや三百六十度か五百四十度か、とにかくぐるっと回転して完璧に変わってしまった。イピの胸元の玉がまた少し熱を持った。

「マドレーヌ、僕はヌークたちのところに行くよ。」

「せっかくお友達になったのに、お話を聞かせて、お茶やお菓子はいかが。」

 夫人はこのままイピを解放したくなかった。

「そうもしてられないんだ。いろいろ事情があってね。」

 お菓子やお茶にはずいぶん気を引かれたのだ。しかし、夫人への干渉を用心する気持ちが働いた。

「エレーヌ、ケーキを食べない?」

 夫人はエレーヌに照準を変えた。

「ケーキを食べたことはないの。」

 エレーヌの言葉は、夫人にショックを与えた。見ればエレーヌはすり切れた粗末な服を着ている。これは貴婦人に強い使命感を与えた。

「では、ぜひ召し上がれ、おいしいわよ。クッキーも果物のパイも珍しい果物もあるわ。それと、ドレスを差し上げます。たくさんあるのよ。あなたに合うのもきっと見つかる。」

 エレーヌは許可を求めるようにイピを見上げた。きらきら光る青い目に強い期待がこもっている。

「わかったよ。じゃあ、ごちそうになろう。僕は果物のパイを頂くことにする。」

 ブランビリエ夫人は社交を心得ていた。イピが自分のことをあれこれ尋ねられる事を好まないと知るやその話題には触れなかった。そのかわり、茶や菓子を振る舞い。エレーヌには、ドレスを侍女やエレーヌに選ばせて楽しんだ。

 イピには美術や文学や歴史について意見を求めた。夫人は、イピが多くの質問に対して深い造詣を示す回答をよこすことに目を見張る思いだった。ところが、また別の話題には皆目無知かピントはずれであると思った。エレーヌは濃紺にベージュのフリルの付いたドレスを選んでもらい、すっかり上機嫌になった。イピと公爵夫人の会話をクッキーを食べながら聞いている。

「デカルトやパスカル以後、フランスの科学はイギリスに押されています。多くの植民地はイギリスに奪われ、国王は頭を悩ませているのです。ニュートンの科学は今日の英国の基礎を築いたといえるでしょう。わが国にも傑出した科学者が必要です。」

「そうかなあ、科学は万国共通の言語であって世界中のどこででも発達する機会がある。また、基礎を学べば後は勝手に発展していく。ただ必要のないところでは発達を遂げないんだ。東洋やアフリカにも科学はある。ところがこのような地域では自然の恵みが豊かで浅薄な科学に頼る必要がない。」

「わが国はそのような国々の野蛮人たちにさえ文化を恵んでいます。南方や東方の国々はわが国の威の前に自然と跪くのです。」

 押し売りに出かけて強盗を働いてくるのと同じだ、とイピは思ったが口には出さなかった。夫人はそのような教育を受け、その恩恵によって育った。もはや信念と化しているのだ、容易に覆るものではない。

「野蛮人は自然に跪くの?」

 エレーヌが、不思議そうに尋ねた。夫人は胸を張って答えた。

「最初は抵抗します。でも銃や大砲によって力を見せつけると、跪くのです。」

「怖がらせたら誰でも跪くわ。」

 夫人はぐっと言葉に詰まったが、諭すように語った。

「これは法王の教えでもあるのです。悪に満ちた異教徒の暮らしぶりを神がお怒りになり、罰を与えるように決め、国王の権利をもって野蛮人の間に秩序と平和を打ち建てたのです。」

 イピは、純真なマドレーヌのどこに、これほど傲頑な意識が潜んでいるのか不思議でならなかった。

「もし、野蛮人に理性があり人間らしく生きようとするなら、イエス様の教えを守り、国王の権威を認めるはずです。そうでないなら、永遠に神の恩寵を受けることはできず、奴隷として扱われても、牛や馬と同じで何の主張もできないのです。」

 イピの中にかすかな怒りが芽生えた。

「マドレーヌ、本気でそんなことを考えているのかい。」

「イピ、これは神の教えなのよ。誰にも変えることのできないイエス・キリストの教えです。」

 イピの怒りは憐れみに変質し、やがて無知への悲しみが湧き上がった。生まれてからずっと吹き込まれ続けた奇怪な考えと、そのおそろしい間違いを平然と語るブランビリエ夫人。イピはこれを容認しておくことは罪であると考えた。イピは立ち上がって、公爵夫人を見つめ、そして語った。

「マドレーヌよ、迫る死を前に魂の煉獄に落ちることを少しでも怖れるのなら、この恐るべき言葉を聞くがよい。砂漠の中にあったキリストは、良心の不毛の中にあったのではない。渇きと飢えに耐える厳しい教えを語ったのだ。この上なく重い罪を犯しながらそれにいささかも気付くことなく良心の眠りをむさぼる者には、この問いに答えることはできない。いかなる権利をもって穏和な生活の中にある者に対して、忌むべき戦いをしかけるのか。いかなる法により無辜の民に残虐をはたらき、圧政を加えて過酷な労働を強いるのか。神の名をもって言葉を語るのなら、汝自身を愛するがごとく彼らを愛せ。これは、かつて聞いたことのないほど、厳しく、はげしさとおそろしさをもって語られたと知れ。マドレーヌよ。」

 イピはエレーヌの手を引いて、夫人のもとから立ち去った。

 イピの言葉は静かに語られた。しかし、ブランビリエ夫人は、その言葉のあまりの厳しさに放心したまま見送ることさえできなかった。

 

  注1;シャドラク鳥  人を乗せて稲妻と共に飛んだという鳥、幸運を運んでくるとされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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