11    エレーヌ

 

 イピは森を抜けて明るい田園風景を見た。畑がゆるやかにうねり、色づきかけた麦の穂が突き出している。イピは畑の間を通る農道を歩きながら、麦の穂を手にとって調べた。日当たりのよい斜面に育っているにもかかわらず麦の出来映えは芳しくなかった。腕の傷の痛みはかなり和らいでいた。イピは血が乾いて赤黒く固まった袖を気にしながら農道を歩いた。

 このまま西北西の方向に五十キロばかり移動すれば、ブルボン家の宮殿がある。時速七キロで歩けば七時間あまり、時速九キロなら五時間半というところで、余裕を見ても今日中にはヌークたちと合流できると思われた。

なだらかな丘を越えると、何軒かの小さな民家が見えた。森から離れるにつれて、畑の様子が変わって来たことをイピは感じた。四十メートル四方で、人が一年の間、食べられる量をなんとか産出できる。先ほどそのように計算したことを修正せざるを得ない。森から離れるほどに有機物の供給が減り、地味が痩せている。この効率の悪さではさらに二、三倍もの面積が必要となる。イピは畑の間を縦横に交差する小道を歩きながら、作物の観察を続けた。

道の向こうから二人の人影が近づいてきた。みすぼらしい身なりをした老人と幼さの残る少女だった。老人は修道服をまとったイピを見、うやうやしく挨拶をした。聖職者は、この時代、特権階級に位置する。老人はイピの汚れた服が怪我をしたものであることに気がつき、足を早めて近寄ってきた。

「怪我をなさったか。」

 老人は聞き取りにくい言葉でしゃべった。宙導師情報センターの言語サンプルとは大きくかけ離れている。

「いましがたもりでけがをした、いたみはとれてきたしもうなんともない。」

 老人はイピが何を語っているのかさっぱりわからなかった。ただ、言葉そのものに聖職者が使う響きがあり、老人のもとに税を取り立てに来る貴族崩れの役人と共通する響きもあった。

「この人は貴族なのよ。」

 少女が老人に言った。

「ああ、そうだろうとも。」

 その言葉はずっと聞き取りやすくなった。アヒムサカ大老のくれた玉がイピの胸元で強力に発動し始めたことがわかる。

「お若いかた、怪我をして難儀しているのなら、家に寄りなさい。薬をつけて布を巻き直してあげよう。」

 イピは迷った、今日中に仲間と合流したかったし、老人の瞳には親切心よりもイピを値踏みする光が宿っている。

「エレーヌ、手を引いて案内しなさい。」

 少女は老人の言葉に素直に従った。エレーヌはイピの手にそっと触れた。イピは少女の手の意外なほどの硬さに驚いた。きつい労働で手の皮膚が厚くなっている。

「すぐそこの家だから手間はとらない。」

 老人の言葉も手伝って、イピは少女の案内に任せた。老人はジャンと名乗り、エレーヌは孫だと語った。粗末な家に入ると、ほうぼうの壁の隙間から外の光がさし込んでおり、古びて穴のあいた床には、無造作に板が打ち付けてあった。家具といえば四角いテーブルに椅子とベッド、ほかに調度らしいものは古びた引き出し付きの小さな台があるだけだった。イピはこの家の貧しさを実感した。

 ジャンは、引き出しを開けて汚い瓶を取り出した。

「この薬はよく効く。」

 瓶のふたを取ると、強い芳香が臭った。これは、石炭を蒸し焼きにするときに取れるヤニだ。石炭酸、クレゾールなどの原料になるから、殺菌効果はあるのだが、建築用防腐剤といった方がより近い。イピは、臭いをかいで薬の正体がわかった。

「腹をこわしたときでも、これを舐めるとすぐに治ります。」

 ジャンは、イピの服の上から腕に巻き付けられた布をほどき、袖をまくった。血は止まっている。老人は少量の黒くどろりとしたヤニを指にとり傷の上に塗りつけた。

「犬にでも噛まれなすったか。」

 ジャンはイピの腕に巻き付けてあった布を再び使った。それでも、服の下に隠れるのでずっと動きが楽になった。エレーヌは、服の袖を濡らした布で擦り、多少は見目よくした。

「ありがとう。お礼を言います。」

 イピの言葉は、今度は正確にジャンに伝わった。ジャンはイピの様子を見るにつけて、この若者が間違いなく聖職者であり、なによりも誠実であることを感じた。

「お若いが、尊いお方に思えてなりません。どうぞ儂の願いを聞き届けてくだされ。」

 老人の青い瞳に沈痛な光が宿り、顔のしわがさらに深くなった。

「この娘は今年、十三になります。」

 ジャンはイピに問われることなく話し始めた。遠い親類の家に預けて、そこで働かせてもらおうと考えていたこと、辛いだろうが少なくとも飢えることはないであろうことなどを自分自身に言い聞かせるように語った。

「今年は特に作物の実りが悪い。税の取り立てが来る前にエレーヌを町に送り届けておこうと思っておりました。ちょうど、エレーヌを町に連れていこうとした矢先にあなた様に出会いました。これこそ、神のお導きです。」

 ジャンは胸の前で十字を切った。

 重税は農民階級を苦しめていた。民衆に寄生するのはわずか一パーセントの特権階級、この場合は貴族と聖職者なのだが、高貴とされる階級ほど税が安いか事実上の無税だった。特権を振り回して、納めた税を回収するためのシステムを作り上げているのだ。それに比べ、農民は四十パーセントもの税を負担しており、不作であっても事実上の減税はなかった。エレーヌは今年中に、収税吏の手によって、どこかの下働き女として確実に売り飛ばされる運命にあった。

「僕には何もできることはない。」

 イピは、エレーヌの厳しい先行きを感じながらもそう言うしかなかった。候補生は運命への積極的な干渉を禁じられている。予定通りなら、あと数年でフランス革命が起こり、貴族たちは次々と断頭台に送り込まれることになる。啓蒙思想は、ブルジョアを中心とした一部民衆の間に浸透しており、世襲によってのみ富と権力を占有しようとする貴族は、もはや存在理由を失っている。運命の激動期が、もうまもなく始まろうとするときに、若い活力を持ったエレーヌに対して安易な干渉をすることがはばかられたのだ。

「おじいさん、心配しなくても大丈夫。働いて、お金をもらったらすぐ帰ってくるから。」

 少女は、明るく老人に話した。

 老人の顔はますます暗くなっていった。せち辛い世の中に打ちのめされていくのが目に見えているのである。

 イピはジャンの青い瞳をまっすぐにのぞき込んだ。

 イピの意識にジャンの心象風景が現れた。親戚といってもかなり遠縁で、エレーヌは安上がりの労働力としてこき使われることになる。ジャンにはそれがよく分かっていた。粗末な食事と、不衛生なベッド以外何も与えられない。それでも飢え死にするか、奴隷同然に売り飛ばされるよりはましと考えて送り出そうとしている。

 これほどの貧しさはどこからくるのか、イピは近世ヨーロッパの政治機構について十分な予備知識を蓄えている。人が人から奪うことによってのみ成立する社会なのだ。社会的弱者は常に満たされないまま生きることを強要される。イピはジャンの悲しみに触れて、少なくとも目の前の苦痛だけでも減じておきたくなった。

 イピは粗末なテーブルに視線を移し、自分に何ができるか考えた。エレーヌを救うことはできる。それこそ、ポケットにある何枚かの銀貨を与えるだけでも急場はしのげるだろう。これを与えてもイピにはたいして影響もないが、少なくともこの少女にとっては、大変な運命の転換となる。老人は今年の税を確実に納めることができる。今年の収穫はまるまる手元に残るから、少女は村に残り、そのうちに革命政府が実権を持つ事でこの村での暮らしが立つようになるだろう。しかし、世の中には数百万のエレーヌがいる。感傷に耐え文明の調査者として冷静に客観視できなくてどうなるか。

 深刻に考え込むイピをエレーヌが首を傾げて見ていた。ジャン譲りの、エレーヌの青い瞳は無邪気な好奇心に溢れていた。

 イピはその純真さに打たれた。

「これを、僕の傷の治療代として受け取ってもらいたい。」

 イピはポケットにあった一つかみの銀貨をテーブルの上に置いた。ジャンはきらりと光る何枚もの銀貨を見て驚いた。農民たちの間では滅多に銀貨を見ることはない。銀貨や金貨を使うのは貴族か富裕な商人と決まっていた。

「これは受け取れませんな。」

 ジャンは堅く辞退した。

「なぜです。」

「こんな大金をもらう理由がない。それに、役人どもは、きっとこれを盗んだものと言い出す。もらったと言って誰が信用するでしょう。このウロブ村には何もない。この家にいても良いことなど何もないのです。儂はエレーヌをどこか良い奉公先に紹介してくれることを望んでおります。エレーヌは賢く、よく働く娘です。儂はもう長いこと村から外に出ていない。若い頃は町まで鶏や野菜を運んだりもしたが、今では町の様子がさっぱり分からない。あなたなら、きっと良い考えによってエレーヌに幸せを与えてくれるような気がしてならないのです。」

 ジャンはテーブルに置かれた銀貨を懐にしまうようイピに促した。ジャン老人は、知恵者であり、意志も強かった。イピは、安易な考えに陥ったことを恥じた。エレーヌの運命はエレーヌ自身が決めるべきだ、ちっぽけな銀貨数枚でイピが運命を買い取るのは失礼というものだ。こうなると、イピにも引っ込みがつかなくなった。イピはエレーヌに向き直って尋ねた。

「エレーヌ、僕は町に行く。友人がいるんだ。町の様子は知らないし、よい奉公先が見つかるかどうかも分からない。でも、一緒に来るのなら力を貸そう。君が決めるんだ。どうするね、行くか。」

 エレーヌはジャンを見た。ジャンは大きく頷いて見せた。ジャンはイピを高く買い、イピに賭けたのだ。そしてそれは、おそらく最も正しい判断だった。

「行くわ。」

エレーヌは快活に答えた。

この一言でエレーヌの運命は変わった。

 

 エレーヌを見送るジャンの姿が小さくなった。緩やかな起伏が続く田園風景の中にジャンの姿がいつまでもエレーヌを見送っている。エレーヌは快活に歩いた。後ろを振り返る度、老人に手を振る。その様子は、楽しい遠足にでも出かけるようだ。丘を越え、もはやジャンの姿が見えなくなっても、気丈な姿に変わりはなかった。イピはエレーヌの健気さに無理があるのを感じていた。

 イピは口笛を吹いた。鼓膜が痺れるような鋭い音ではなく、緩やかな美しい旋律を吹いた。イピはこれが得意だった。ウードという、木の管に穴を開けて作った楽器があればさらに高度な演奏も可能だが、手元にない。麦畑を渡る風にイピの吹くメロディが乗って、音が届く範囲全体が暖かな波動に満ちた。それは、エレーヌの張りつめていた心の糸を溶かしてしまった。イピはエレーヌが道に立ちつくしているのに気が付いた。その目に涙をためている。肉親との別れがいよいよ現実のものになり、知り合ったばかりの若者に連れられて町に向かうことがたまらなく不安になったである。

「エレーヌ、心配いらないよ。何とかなるものさ。」

 イピは元気づけようと明るく言った。

「どのようになるの。」

 エレーヌは、全く素直に尋ねた。

 この娘には骨がある、とイピは思った。やみくもに明るい未来を信じるのでもなく、臆病でもない。 

「そうだね。生きる限りは、暮らし向きが良くなることが大きな関心事だ。愛する家族と暮らし、自分の仕事が正当に評価され、健康で楽しく生活できればそれに越したことはない。」

 エレーヌはイピの話しぶりが慈愛に満ちたものであることを感じた。

「単純なことのようで、難しいが、僕ならこう考える。やれるだけやったらそれでいいとね。うまく行くかどうかは、魂が決めることだ。」

「魂が決める?」

「そう、人には過去も未来も存在しない。現在も一瞬で過去となる。人には未来に向けての方向性があるだけなんだ。魂は羅針盤だ。」

エレーヌにはイピが何を言っているのか分からなかった。言葉の意味は分かってもイピの表現したい内容は伝わらない。それでもイピは続けた。

「心から願うと、未来はそのようになるんだ。」

「おじいさんは毎日の暮らしが苦しいと言っているわ。もっと良い世の中になって欲しいと言っている。」

 エレーヌはイピについて再び歩き始めた。

「そうだろうね。しかし、君のような孫と暮らせて、その点は幸せだったと思うよ。それは、心から願ったからなんだ。」

「心から願えば望みは叶うの。」

「そうだよ。世界の中心は一つではなく、無数にあるんだ。君もまた世界の中心にある。それらが互いにつながって編み目のような世界を作っている。君が心から望み、求め続ければ運命の糸は求める所に必ずつながる。」

エレーヌにとってイピの言葉は空虚でしかなかった。願えば何でも叶うなんて、おとぎ話でしかない。

「それに君は幸運だ。」

「どうして。」

「本物の聖者に出会ったからさ。」

 イピは正当な評価を自分に下しているつもりなのだが、エレーヌにはそれがおかしかった。村にはしょっちゅう自称聖者を名乗るいかさま師がやってきて食べ物などを求める。ジャンは賢い老人で、そのようないかさま師のどこがおかしいかを的確に指摘し、エレーヌに語って聞かせた。

「聖者とは他人がそう呼ぶものであって、自分で名乗るものではないといつもおじいさんが言っているわ。」

 イピは痛いところを突かれて口ごもった。

「君の言うことはもっともだ、でも僕はアベスタの聖者なんだよ。」

 アベスタの発音がエレーヌには聞き取れなかった。

「どこ。」

「遠い遠い国さ。ベツレヘムよりももっと遠い。」

 エレーヌは吹き出してしまった。つい先日もベツレヘムからの巡礼者と名乗る乞食が、大いなる奇跡をもたらすと言いながら物乞いにやってきた。ところが、隣村の物売りに、出身地から本名までを暴かれてしまいあわてて逃げ出した。エレーヌは、その滑稽な姿を思い出したのだった。

「僕は本当のことしか言わない。」

 この少女は余計な事を口にするほど愚かでなかったが、イピには、エレーヌの青い瞳が嘘だ、と告げているのがはっきりと分かった。

「いいわ。信じてあげる。」

 イピはむっとした。

「本当だ。」

「だから信じるわ。」

上手な嘘がつけるほどエレーヌは大人ではない。また、イピに嘘はつけない。エレーヌにとって、イピはすっかり「おかしな人」になってしまった。

「ねえ、あなたの名前を聞きそびれたの。たしか、イペだったかしら。」

「イピだ。」

「おかしな名前ね。」

エレーヌの言葉尻にイピを小馬鹿にする響きが含まれている。イピは馬鹿にされることに慣れていない。適当にあしらっておくことができないのだ。

「この世界では正しい言葉がそのまま受け取られることがないのか。仰々しい折り紙を付けなければ耳を傾けられることもないのか。いいとも、真実を見せよう。地球に生まれた聖者たちも事あるごとに奇跡を求められてきた。」

 エレーヌはイピがムキになっているのが面白かった。

「これから高速移動の法というのを見せる。ずっと歩いていくつもりだったが、同じ事だ。ついでに君も運んでやる。」

「走っていくの?」

なんてこった、エルゼよりもたちが悪い、イピはその言葉を噛み潰して眉間に人差し指を当てた。口の中でいくつかのアベスタの祭文を唱える。これは精神の集中を助けるための祭文で熟達すれば必要でない。

一つ目、二つ目と順に唱えていっても変化はない。エレーヌは唇を尖らせて意味不明のまじないに聞き入った。それは教会で唱えられる祭文に似ていた。

三つ、四つ、やっと五つ目ぐらいでイピのレビテーションが発動した。なかなか発動しないが一度働き始めれば、強力な効果をもたらす。周囲の空気からその他の物まで、すっぽり包んで運んでしまう。

「よーし、今回はうまく行ったぞ。僕の服をつかんでいろ。」

イピは力を込めて言った。周囲の草、石ころなどがイピの精神の咆吼に反応して振動をはじめた。何よりもイピの精神の高揚が次第にエレーヌにも伝わり、エレーヌは全身の筋肉が訳もなく震え始めた。

エレーヌがイピにしがみつくと同時に、イピの精神は爆発的に解放された。二人の体は空に向かって舞い上がった。突き上げられる反動でエレーヌの体がイピに対して百二十度の角度をとった。足が天を向いたまま地面が一気に離れていく。今まで歩いていた道が急に細くなり、麦の畑が四角い布に見え、さらに視界が広がっていく。エレーヌは声にならない歓声を上げた。地上四百メートルまで飛び上がると、今度は方向を変え、地面と平行に移動し始めた。矢のように速く、いや、実際はその倍の速さがあった。秒速三百メートル。イピとエレーヌを包む空気の球が風を切って激しい唸りをあげた。

エレーヌはイピにしがみついたまま、イピの脇腹から顔を出した。荷車を押すときには気の遠くなるほど遠いと思っていた地主の家が、あっという間に後ろに過ぎて行く。エレーヌはもう夢中だった。山を一つ飛び越えると真正面に教会の高い塔が現れた。その屋根がぐんぐん近づいてくる。

「きゃー。」

 エレーヌはぶつかる事を覚悟して固く目を閉じた。

 イピは額に人差し指を当て、真っ正面から塔を睨んだ。イピの目は血走っている。弾道は容易に変更できない。

 どっかーん。空気の玉が塔の屋根をこっぱみじんに破壊してそのまま通過した。細かな破片と塵が飛び散り、塔のてっぺんが一瞬で雲に包まれたように見えた。

 エレーヌは目を開き、ついで大きな口を開けて笑った。イピもなんだか楽しくなってきた。

 イピはさらに速度を上げた。空気の玉が生む衝撃波はますます強くなり、地上の人々は青天に雷鳴が響いているのだと思った。空を見上げる者は二人の人間がすばらしい速さで飛んでいくのを目にすることになる。

 

 

 

 

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