10   狼

 

 金色の光が消えると、鬱蒼と茂る森が広がっていた。転移が完了したのだ。木々の間から陽の光が降り注いで、見上げると空が明るく青く見えている。森の空気は様々な木々の匂いに彩られ下草が小さな白い花をつけていた。地球は確かにいのちの溢れる場所であった。イピは周りを見回した。大きな石灰岩を三つ重ねた道標が目に付いた。苔が生えて、つる草が絡まっている。ヌークとラグも来ているはずだが、姿がない。

「どこにいる。ヌーク、ラグ。」

 イピの声は森の中に吸い込まれた。その声に驚いて無数の小鳥が近くの大樹から一斉に飛び立った。その羽音はイピを驚かせた。

「なんて沢山の鳥がいるんだ。」

 物珍しさであちこち見て回りたい気持ちを押さえつけて最初にやっておくべき事がある。まず、この場所と時間を特定しておかねばならない。それに、転移装置に飛び込んだ大ネズミを探し出して捕獲することも重要だ。ヌークたちは、一足先にそれを追ったのかも知れなかった。イピはポケットの玉を取り出した。透明な方と青い方、どちらも同じ大きさのためポケットの中では区別がしにくい。イピは両手に一つずつ持った。大老の言ったとおり、青い方は澄んだ色に変わっている。こちらの方が僅かに重い。イピはそれを胸ポケットにしまった。端末機は周囲をスキャンし年代の測定結果をイピの意識野に出力した。こちらの世界では不用意にホログラムを現出すべきでない。結果は千七百六十五年、フォンテンブロー近郊と出た。少し経ってイピの端末が断続的に振動した。連絡が入ったのだ。

「イピか。ずいぶん遅かったな。」

 連絡はヌークからだった。

「ああ、君か。今どこにいる。」

「ベルサイユだよ。宮殿に来ている。商売をしているんだ。ラグは貴族になりすましている。貴婦人たちの間で大変な人気だ。僕は、彼を宮殿に送り込んで貴族たちに面白いものを売りつけているのさ。」

「おい、どういうことだ。いったい僕は何日遅れた。」

「今日で十日になる。転移装置の中で二人が走っただろう。妙なことになったようだ。」

「例のネズミはどうなった。」

「僕らよりもさらに前に来たのは間違いない。周辺を徹底的に探査しても、手がかりがないんだ。結局、死んだと結論した。」

「そうか。」

「とにかく、こちらに向かってくれ。地図を送っておく。おっと、客が来た。あとで連絡する。」

 通信は一方的に打ち切られた。

 ヌークから送られてきた地図には地形や構造物、植生などが書き込まれてあった。実際に歩いて書いた地図だ。これは今のイピが最も必要としているものだった。

「ヌークの奴、気配りが出来ているじゃないか。」

 イピは思わずひとりごとを言った。今後の行動に大変重要なものなので、十分に頭に覚え込んだ。それによると、三キロも歩けば森から抜けられる。

 イピは気が楽になった。端末をポケットにしまい森林浴をするつもりで悠々と歩き始めた。適度の湿り気を持った土は、布靴で歩いても不快ではなかった。イピは足の裏に森のひんやりとした心地よさを感じた。

 小径に動物の足跡が残っている。まだ新しい。数頭の群だ。

 イピは記憶を探ったが、動物に関しての知識は希薄だった。どうやらイヌだと結論した。

 イピが小径を歩いているところを木の陰からこっそりと様子を窺うものがいた。くすんだ緑色の瞳を持った数頭のオオカミであった。それらは走ったり隠れたりしながらイピの後をつけ、次第に横に回り込んで包囲を縮めた。イピは初めて見る景色に夢中だった。様々な草花はざっと見ただけでも百種はありそうだった。それぞれが、せめぎ合い互いに依存しながら生きている。

 狼たちの包囲は次第に小さくなった。大陸オオカミと呼ばれる大型の種類である。軽快に森の中を走って走欲を満たし、集団で狩をする。やがて一頭の銀色の毛並みを持つオオカミがイピの横をかすめて走った。イピはホログラムでしか見たことのない獣が脇を駆けていったのを見て驚いた。しかも、毛並みも体躯も実に見事な動物だ。

「おお、何と綺麗な生き物だろう。」

 イピは立ち止まって動物を呼んだ。

「さあ、来い。イヌ、おまえたちを触らせてくれ。」

 この森はブルボン王家の狩猟場である。銀色オオカミは人の仕掛ける罠をかいくぐって森へ侵入し、人より先に獲物を狩る知恵を持っていた。ヒトは狼にとって敵であった。オオカミはイピの方に向き直って牙を剥いた。

「ははあ、僕を怖れているな。何もしないよ。」

 集団で行動する狼は野犬の群とは違ってすぐに人に襲いかかって来ることはしない。特に相手が全く恐怖の反応を見せないときには好奇心を持って近寄ってくる事さえある。イピは獣の頭を撫でてやることをあきらめ、銀色狼を無視して歩き始めた。周囲の茂みでがさごそ音がするのは、他にも仲間がいることを物語っている。

「ふふふ。」

 イピはトコトコあとを付けてくる「イヌ」が面白くて仕方がない。狼はイピに興味を持った。イピの姿は人のものだが全体から発散する雰囲気がまるで普通の人間とは違う。狼にとってのイピの印象は水が光のようなものだった。道のりはまだまだ先がある。そのうち、銀色狼がイピの側を少し離れて歩くようになった。イピはその背中に大きな傷跡があるのを見つけた。長い毛並みにも隠れないその傷跡はギザついた道具によって付けられたものであることが見て取れた。

「おや。」

 イピはポケットに手を入れて、端末機を掴んだ。端末機のマスコットが起動してイピの意識野に映像を結んだ。

(マスコット、僕の視覚情報を読みとって、この動物について調べてくれ。)

 端末機による検索は、速やかに行われた。

(これは大陸オオカミと呼ばれる種族で、家畜を襲う害獣とされている。背中の傷は罠にかかったんだ。)

 マスコットがもたらした情報はイピにショックを与えた。イピが立ち止まるとオオカミも立ち止まってイピを見上げた。銀色オオカミの目はくすんだ緑色をしており、好奇心に満ちていた。

「おまえたち、生きていくのが大変なんだな。」

 イピは手を伸ばして狼の頭を撫でた。狼は長い鼻面を持ち上げ舌を伸ばしてイピの手をなめた。開かれた口から白い見事な牙がのぞいた。オオカミには聖者の祝福を受ける価値があった。

「その舌がおぞましい言葉を操ることはない、美しい牙は獲物を裂くために使い、足は大地を駆けるためのもの。」

 銀色の狼に続いて周囲からも数頭の群がイピを囲んだ。イピは狼の頭に手を乗せて特に高等なアベスタの祭文を唱え、この生き物が地上で滅び去ることがないことを祈った。イピは、これらの獣が最も残忍な方法で殺戮されていくことを知った。それゆえにイピは悲しかった。その悲しみは狼たちに伝わり、狼たちは空を仰いで遠吠えをした。イピも声を合わせて吠えた。

「何をしているのよ。」

 イピの悲しい心情を土足で踏みつける声がした。聞き覚えのある声だった。振り返ると、ふさふさした黒髪を掻き上げるほっそりした美女の姿があった。エルゼ・バートリだ。

「げっ。」

「けものを相手に何を泣いているの。」

「何でおまえがここにいる。」

 エルゼが派遣実習に来るはずがない。選考に通ったのは三人なのだ。しかし、ここにいる。

 イピは激しく舌打ちをした。最も見られたくない相手に、知られたくない秘め事を見られた気分だった。イピの気分に狼たちが敏感に反応し、エルゼに向かって唸りをあげた。エルゼは恐れる様子をみじんも見せずに狼たちを睨み付けた。エルゼの厳しい視線には毒がある。狼たちはいっせいに森の奥深くに駆け込んでいった。

「いつから見ていたんだ。」

 イピは心を鎮めながら聞いた。

「最初から全部。叙情的な場面だったわ、あなたを少しだけ見直した。」

「忘れろ。」

「とんでもない。アベスタの高等祭文を含めてぜーんぶ録画した。ゼーランドに戻ったら論文に書くつもりよ。」

  イピはこの上なく気分を害した。消去しろと言いかけたがやめることにした。何かを言って通じる相手ではない。

「なぜここにいるのか答えてないぞ。」

「実習に来た訳じゃない。転移装置が誤作動していないかチェックしに来たのよ。あれからフォーマ教授と候補生組合が話し合って特別にもう一人の枠を作った。それに立候補したのが私。」

「見ての通り、僕には何の異常もない。ヌークとラグは十日も前に来て活動を始めている。彼らにも問題が起きたとは聞いていない。」

「知ってるわ、すぐにラグと連絡を取ったから。」

イピはこの女について最低限の用事以外は無視することにした。エルゼに睨まれると狼さえも逃げるのだ。魔眼の女だ。イピはエルゼにかまわず森の出口に向かって歩きはじめた。エルゼはとりあえずイピのあとに続き、探査装置を用いて転移を経たイピの実体をスキャンした。

暗い森が次第に開けてきた。地面が砂を多く含むようになり、やがて全くの砂地に変わった。いたるところに丸みを帯びた巨岩が転がっている。このあたりがはるか昔に海底であったことの結果だと思われた。ヌークの地図によるとバルビゾンの村も近い。

「イピ・ユーム、あなたが私を嫌っているのは知っている。でも最低限の協力体制は取ってほしい。」

 エルゼは冷静な口調でイピに語りかけた。イピはエルゼの視線が背中に注がれているのを感じていた。それが何となく重苦しくなっていたのだ。さては背中に毒の視線を注ぎ込まれたかと思い、思い切って振り向いた。エルゼは無表情にイピを見つめていた。

「どんな協力が必要なんだ。」

「情報の交換よ。」

「ラグと連絡をとったんだろう。」

「ええ。でも私は言語や習慣についてのデータを持ってきていない。」

 イピは首を傾げた。

「おかしいな。青い玉を出してみろ。」

 エルゼは一センチほどの水色の玉が埋め込まれた指輪を示した。

「これは一時的な代用品。実習に来たんじゃないのよ。アヒムサカ大老への謁見をしてないから、あの強力な玉はもらってないの。フォーマ教授はあなたを選んで転移装置を再始動した。私の端末機にデータを転送してもらいたいからよ。」

 イピは面倒な事を頼まれてしまった。ヌークやラグは端末の扱いに慣れていない、というよりもごろっとした玉に強力な処理装置を仕込んで、データの転送などをするのは古めかしい技術なのだ。ラグの端末などは小さな滴型のペンダントトップに仕込まれてあり、必要最小限の機能しか持っていない。ヌークも同様だ。

「わかった、君の端末を出せよ。」

 エルゼはラグと同じような細いチェーンについた星形のペンダントをイピに手渡した。イピは大きな丸石の日陰に入り、乾いた砂地の上に座り込んだ。二個の玉を手に持ち、エルゼのネックレスを膝に置いて転送機能を働かせた。

 エルゼの端末はすぐに書き込み不能になった。

「こんな小さいものには入りきらないぞ。」

「意地悪しないで、工夫してよ。」

「こんな事で意地悪なんかするか。だいたいこんな物は端末じゃないんだ。おもちゃだ。おもちゃ。」

「今どき、大きな玉なんて誰も持ってないわ。」

「これでもずいぶん小さくなったんだ。」

 イピはマスコットを起動した。

「マスコット、このおもちゃの処理能力と容量を調べて、必要度の高い順からデータを抽出し転送してくれ。」

「わかった。」

 マスコットは忠実に処理を行った。

「無駄な領域がかなりある。その部分にも書き込んでいいか。」

 イピはマスコットの問いかけをエルゼに伝えた。

「だめよ。それは予備にとってあるの。だってせっかく来たんだから色々と情報集めをしたいから。」

「そうじゃない。まったくの無駄、読めないデータの切れっぱしのことだ。」

「それならいいわ。」

 イピは頷いて、作業の進捗状況を監視した。エルゼの端末の内部が見える。

「ふん、普段から、もっと整理しろよ。ディスクスキャンしてさ。ゴミだらけのおもちゃだな。あーあ、全体の四割がたがゴミ屑じゃないか。これじゃあ、さっぱりだ。もともとだめな物が、もっとだめだ。」

 イピは正直な感想を述べているつもりだが、エルゼはしだいに頭に来た。イピの奴ーっ、という思いが口から漏れるのを何とか持ちこたえた。エルゼは大人の女だ。

「よし、終わった。」

 イピはエルゼにネックレスを手渡した。

「お礼をいうわ。それじゃあ私はラグとヌークの様子を見てくる。それと、あなたの体には現在何の異常も見られない。報告しておくわね。」

 エルゼは術を使って移動しようとした。

「おい、術はなるべく使わない方がいいんだぞ。」

 イピは精一杯の親切心で注意した。

「いいわ、どうせすぐ帰るんだから。じゃあね。」

 じゃあね、と同時にエルゼは消えた。イピはほっとした。エルゼと行動をともにするのは避けたかった。

 一人になったイピは再び、小道を歩いた。所々、小枝や下草をかき分けながら歩かねばならないが、不快な感覚はない。イピにとって、植物も岩も目に入る何もかもが珍しく、美しい造形に思えた。イピが一人になってしばらくすると、少し離れてまた銀色狼が並んで歩き始めた。エルゼが来て森に逃げ込んだ後も、ずっと様子をうかがっていたらしい。

「ああ、おまえも一緒に歩いてくれるんだね。」

 イピは上機嫌になり、駆け出したい衝動にかられた。そして、森の出口に向かって思い切り駆けた。銀色狼もイピについて走った。大型の狼は跳躍する度に、見事な筋肉がうねり毛並みが風になびいた。後続の狼の群もイピを追って駆けた。

 群の中に背中に黒い筋の入った若い狼がいた。イピの走る姿に次第に興奮し、その興奮が別のものに取って代わった。若い狼は一気に群を抜け、イピに追いすがり、その腕めがけて跳躍した。

 イピは急に腕が重くなり、足が地面を離れて次の瞬間には、顔面から草むらにつっこんだ。腕に焼けるような熱さを感じる。イピの上腕部に、背に黒い筋の入った狼が噛みついていた。長い牙が修道服を噛み破り、イピの肉を裂いた。

 銀色狼が激しいうなり声を上げ、若い狼の首筋にすぐさま飛びつき噛みついた。イピに対する攻撃に怒るというより、狼は規律を乱すものに厳しいのだ。イピはその後の狼の攻撃からは免れた。しかし、腕の傷は深く、修道服にみるみる血のしみが広がっていった。イピは腕を押さえ、何が起こったのかを知った。腕の傷が急に痛み始めた。

「痛い。」

 イピは生まれて初めての激しい痛みを感じた。また、狼が襲いかかって来たときの獣性の印象が強い衝撃を与えた。ゼーランドでは、このような思いがけない攻撃を受けることは全くない。

 狼のうなり声がおさまった。銀色狼は群の統率を取り戻し、イピを噛んだ狼は尻尾を巻いて輪の外に逃げた。イピは自分で傷の手当をするしかなかった。修道服の裾を裂いて噛まれた腕に何とか巻き付けて縛った。

 銀色狼がイピに近づこうとした。その姿は傷ついた仲間に対するものだった。

「来るな。」

 イピは激しく言い放った。銀色狼の目はしばらくイピを見つめ、くるりと背を向けて森の奥へ消えた。

 イピは銀色狼を拒絶したことを悔やんだ。

「ああ、あの銀色狼は僕を助けてくれたんだ。僕を噛んだ狼にしても、いま考えてみれば、僕が走ったことで、獲物を追う感覚が急に頭をもたげてきたんだろう。」

 イピは傷の痛みをこらえて立ち上がった。銀色狼の姿はもうない。銀色狼は地球で最初の友達だったことを思った。

 森の出口の先に広々した田園風景が広がっている。 

 

 

 

 

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