アリーはパオで四日目の朝を迎えた。河から溢れた乳白色のもやがテントの周りに濃厚にたちこめている。シェビーダは朝の茶を済ませたアリーを呼んだ。皺だらけの顔に満足気な笑みを浮かべている。

「アーダとナーダはみごもった。おまえは儂の求めた務めを果たした。」

「もう、そんなことがわかるのか。」

「祭礼占い師として当代一位と謳われたこともある。そういうたはずじゃ。」

老婆は深い青の瞳でアリーを見つめた。その視線は強く、そして思いがけないほど暖かかった。

「次の夏には女の子が一人と男の子が一人産まれるだろう。いずれもおまえに似て鋭い頭と強い体を持つ子じゃ。約束したとおり大事に育てる。」

「将来、子供たちが僕を訪ねて来れば出来るだけのことはしよう。」

「ふん、ラゾの者にしては、ましなことを言う。」

 アリーの心はすでにジェラスに飛んでいた。

「僕はラゾには合わなかったのかもしれない。王になるよりも、故郷に戻り、ジェラ族として生きることを望んだ。」

「それが人の証というものじゃ。」

 シェビーダは懐から金貨の詰まった小袋を取り出した。

「受け取れ。子供たちの出生祝いを先渡ししてやろう。トリアなら正式な種付け料として支払われる金じゃ。」

「そんなものはいらないよ。三人は皆いい娘だった。短い間だったが彼女たちのことは決して忘れない。」

「優れた血をピチェに注入しようとする儂の考えは、実にトリア的じゃ。おまえにしてみれば、不愉快なものであろう。」

「あんたは、トリアとラゾの両方を捨てたんだな。」

「そうじゃ。初めてラゾに行ったとき、この青白い肌を見るたびに自分の生まれた場所を思い知らされた。バウドもシャパも同じに見えることが羨ましかったものじゃ。トリア族でさえほとんどはバウドと変わらん。北の果てをさまようガナックだけが違うのだ。」

「その点は僕も同じだよ。」

 ジェラ族の肌は赤みを帯びており、そのような特徴は他の部族には見られない。また、トリアの中の真のトリアと呼ばれるガナックという小集団は青いまでに白い肌をもつ。

アリーはシェビーダの差し出した袋を、老婆の手ごと両手で包んだ。

「せっかくだが、これは受け取れない。ここでは、ずいぶん世話になった。持っておいてくれ。」

「ジェラは貧しいものから金を取らんな。トリアなら決めたものは必ず取る。それがいかに不公平な取り決めであっても。」

 アリーは軽く肩をすくめて見せた。

「ところで、いつ出発できる。」

「いつでもよいぞ。河を荷船で下り、海まで出て乗り換えればよい。そこまで、シェロに案内させよう。潮に合わせて外洋船が乗り入れてくる。われらの交易相手じゃ。これを逃せば、乗り換えに何日か足止めを食らう。」

「ありがとう、それでは今から出発する。」

 

 三本マストの巨大な帆船がジェラスを目指していた。優雅な白い船体にセー・リーベ号と誇らしげに海の女神の名が書き込まれてある。三本の帆柱にそれぞれ六枚の帆を掛け、船首に四枚の三角帆を装備している。特に三角帆の役目が重要である。どんな向きの風でも捕らえることが出来、たとえ向かい風でも効率的に目的地に向かって進むことができる。

「このぶんなら、あと七日もあればジェラスに着くぞ。この船は足が速い。」

 アリーは快活な口調で望遠鏡を覗き込んでいる男に言った。

 肩越しに長い顎が見えている。シェロはアリーたちを船に乗せるとき、ジェラスを一度見てみたいと言い、そのまま船に乗り込んだ。

「俺もこんな船が欲しい。馬もいいが、船のほうがもっといい。」

 シェロは海と船を交互に眺めながら言った。海はあらゆる青色を波間に見せていた。深い青、波頭に砕ける白と混ざる淡い青。海流によっては深い青緑もある。シェロが見慣れた黄色い大河とは余りにも異なった水の世界だった。

 アリーは海を眺めながら語った。

「僕の父は、小さな荷船で果物を運んでいた。」

「ほう。」

「四歳のとき、ラゾから立派な風貌の祭事博士が僕を迎えにきた。カルバという名で、その後、僕の専任教師となった。僕が、ラゾに向かうなら父の船で海を渡りたいと言うと、その祭事博士は快くそれを受け入れた。祭事省の用意した巨大なスクーナの船団を従えて、小さな果物運搬船がどれだけ誇らしく海を渡ったかわかるか。」

「もっと聞かせろ。」

 シェロは望遠鏡から目を外し、アリーの端正な横顔を見た。

「僕は何度も船の甲板を走って、前方の水平線と後方の船団を交互に見にいった。そのときの光景を昨日のように思い出す。父の船は果物の詰まった木箱を満載していた。船体を深々と水面下に押し下げた小さな荷船が波を一つ一つ乗り越えてゆく。そんなちっぽけな船と立派な四本マストの船が後方に二隻、斜めうしろに二隻。僕たちの船を捧げるようにして進んで行くんだ。父は船首で腕を組んだまま前を見ていた。赤銅色の背中には筋肉が盛り上がって、いくつか刀傷が走っていた。」

 祭礼占い師を祖母に持つシェロには多少の精神感応力があった。

「おまえのおとっつあんが何となく見える気がする。」

「そうか、僕には、その父を殺した者を許すことが出来ないんだ。ジェラは一生を捧げても父の仇を討ち晴らす。それがジェラ族の決まりだ。」

 水平線を見つめながら静かに話す若者を、シェロはまぶしい思いで見つめた。

「俺よりずいぶん若いくせに、たいした野郎だぜ。」

「年齢など何の意味ももたない。」

 シェロは唇を固く結んで無口になった。

 何かと元気なシェロに較べて、マイは波に酔い、どん底の状態に陥っていた。河口から沖に出るまでは、初めて見る海に黄色い歓声をあげていた。しかし、外洋に出て波が高くなってくると次第に口数が少なくなり、やがて全くしゃべらなくなった。それどころか、飲食物を一切受け付けない。そうなってから、もう四日になる。

 このスクーナ船のクルーたちは皆、巫女を気遣った。海の男は縁起を担ぐ。万一、海の精霊に嫌われでもすると船を沈められてしまうと本気で考えていた。

 特に船長にとって、巫女は海そのものだった。巫女が船上で苦しめば船は海の精霊から嫌われる。しかも、この巫女は当代一位というラゾの祭礼占い師なのだ。船長としては、海に嫌われた場合どんなおそろしいことが起こるか想像すらしたくない。船長はガ・ルーと呼ばれていた。まだ若い男で黄色いゆるくカールした長髪を後ろで束ねている。顔を横断する大きな傷がなければ文句なしの二枚目である。

「一口でいい。この水を飲んでくれ。」

 マイの顔は青白く、目がうつろだった。のろのろと銀のカップを受け取り唇にあてがった。口に含もうとすると激しく嘔吐した。もう吐く物はない、代わりに黄色い消化液がカップの縁を濡らした。

「だめか。」

 ガ・ルーは側に立っていた船医の手から葡萄酒の瓶をもぎとった。

「次はこれだ。水がだめでも、これで気分が治る者もいる。」

 マイは船長の手で別のカップに注がれる赤い液体を見た。手を伸ばそうともしない。 

「巫女、頼むから船を嫌わないでくれ。なんとかして船酔いの薬を手配する。」

 たいていの場合、ガ・ルーの船のような外洋船に船酔いの薬は用意されていない。波に酔う海の男などは、軽蔑の言葉さえかけてもらえず甲板に転がされておく。しかし、これは最上の治療法でもある。徹底的に船酔いし、これ以上この状態が続くと死ぬという時に人体は揺れを受け入れてしまう。船長は巫女に対してその方法はとらなかった。そんなおそろしい真似は出来なかった。

「船長、小便を飲ませてみたらどうでしょうな。」

 船医の言葉にガ・ルーは目をむいた。

「ばかやろう。祭礼占い師にそんな真似がさせられるか!」

 船乗りの間ではよく知られた船酔い止めの方法である。自分の小便を飲むのだが、よほどのことがない限り試みる者はない。

 ガ・ルーは大声で通信士を呼びつけた。電気通信はラゾでのみ許された禁制の交信手段だったが、ラゾの支配の及ばない海洋をわがものとする者たちにそれを強制する方法はなかった。海上は無法の領域だった。ジェラスと中央大陸を結ぶジェラス航路は海の男にとって最も実入りの多い航路であり、この海域を牛耳るガ・ルーは海の花形だった。

「船酔いの薬を手に入れろ。ガ・ルーの至上命令と言え。遠方の船団では役に立たない。ジェラス航路の船に呼びかけろ。良い薬を積んだ船があったら最優先で持って来いと言え。」

 通信士は弾かれたように船室を出ていった。

 海の色が蒼黒く変わり始めていた。海流が変わったせいではなく無数の小魚とそれを追ってきた魚群の色だった。風はさわやかで空も晴れ渡っていた。

「アリー、釣りをしよう。それとも、網を投げ入れようか。いくらでも魚が捕れそうだぞ。」

 シェロが楽しげに言った。

アリーは無表情にマストを見上げた。マイが苦しむ姿を見るにつけていやな予感が膨れ上がってきていたが、それがどうやら現実のものになりそうなのだ。

「鳥がいなくなったな。」

 アリーはラゾで海事に関する講義を受けていた。その中で海難事故についての興味ある記事も読んだ。

 アリーはそれを思い出しながら語った。

「小さい魚の群が、大きな魚の群に食べられる。大きな魚が次々にもっと大きな魚に食われてゆき、最後に海の生態系の頂点に君臨するメガロドンが登場する。ごく稀に、一連の光景を一カ所で目にすることが出来る。」

 本を読む口調だった。

「メガロドンってなんだ。うまい魚か。よし、それを釣り上げて食うか。」

 シェロは気楽だった。

「味なんか知るもんか。何しろこの船ほどの大きさがあると言うんだ。」

「へへへ、それじゃあ、釣り上げるのは無理だな。おとなしい奴なんだろうな。俺は海の生き物についてはほとんど知らないんだ。」

「凶暴と聞いている。」

「そんな現象は稀なんだろう。おまえは今そう言ったぞ。」

 アリーの深刻な様子を見るにつけて、シェロの顔の笑みが次第にひきつったものに変わっていった。

 デッキから見下ろしていると、小魚のあいだにちらほらと比較的大きな魚の魚影が見えた。次第に大きな魚が集まってきているのだ。しばらく見ているあいだに、人の背丈を越えるような大魚が水面でのたうっているのも見えた。

 シェロは背筋に悪寒が走った。

 ガ・ルーが甲板に走り出てきた。船長は海面の変化に敏感だ。

「海鳥が全然来てない。」

 さらに船長は真っ青な水平線上に巨大な入道雲を見つけた。 

「いやな予感がするぞ。」

 シェロはガ・ルーの腕をつかんだ。

「ガム、どういうことか説明しろ。」

 シェロはガ・ルーをガムと呼ぶ。

「あとにしてくれないか。」

「うるせえ、絶対に安全だと大見得を切りやがって、きちんと言わないと、この腕をへし折るぞ。」

 シェロはガ・ルーに顔が利くらしかった。

「わかった、わかった。時化が来そうだ、しかもでかい。もうひとつ、海が黒いほど魚がいるのに、鳥が一羽も飛んでこない。」

「それは陸から遠いせいだ。」

「マストに渡り鳥の姿がない。どこかに逃げたんだ。不吉なことが起きるかも知れない。もういいだろう、手を離せ。」

 ガ・ルーはシェロの腕をふりほどいてキャビンに走っていった。

  シェロは長い顎をしゃくって帆を見上げ、ぼそりとつぶやいた。

「なんでだろうなあ、いつもなら鳥が羽を休めているのに。」

 海面が異様に膨れ上がった。

丸く小さな丘が海面に出来たようだった。それを突き破って見たこともない巨大な生物の鼻づらと口がせり上がっていくのが見えた。さらに上がっていくかと思っていると人の頭ほどもある大きな丸い目玉がのぞいてから意外なほど静かに水面下に消えた。

 船上が騒がしくなった。

「化け物が船の下にいるぞーっ。」

 マストのてっぺんから見張り番が大声で叫び、非常用の鐘を打ち鳴らした。マストの上から見下ろしていると、スクーナの船体と同じぐらいの黒い魚影が船の下を行き来している。

「シェロ、来たぞ、最悪の魚が。」

「船に突っ込んでくるのか。何か手はないのか。」

「船首に銛の発射装置があった。ロープを外して銛だけをぶち込めばなんとかなるかもしれない。」

 拡声器を使ったガ・ルーの声がデッキに響いた。

「砲門を開け。」

 シェロの顔に笑みが戻った。

「あの大口屋め、やる気だな。」

 アトシスでは、武器は剣と決まっていた。火器は最も忌むべき道具とされていたが、海賊たちはいちはやくその強力な武器を積み込んでいた。

「一発で決めないと逆効果だぞ。」

 再びガ・ルーの声が響いた。

「綱は外すな。海から引きずり出してやる。」

 次第に風が強くなってきた。さっきまで晴れていた空に黒い雲が広がっていく。

「ばかな、海の中に引きずり込まれるぞ。」

「アリー、操舵室に行こう。ガムのやることは納得できん。」

 ガ・ルーは操舵室の計器板を見つめ、マイクロホンを握りしめていた。この船には電気を用いた設備がある。これはラゾの研究機関以外では珍しいものであった。電気を使うことはごく限られた研究機関を除いて重大な犯罪行為とされていた。

「ガム、何をトチ狂ってやがるんだ。綱を外せ。引きずり込まれるぞ。」

「静かにしろ。今、交信が入っている。」

 ガ・ルーは長髪を掻き上げてイアホンに意識を集中した。

「近くの船が何とか切り抜けたといっている。非常に小さな範囲で強い風が吹き荒れている。変わった嵐だ。まっすぐこちらに向かっている。」

 ガ・ルーは交信を終了した。マイクを置き、シェロに厳しい口調で言った。

「セー・リーベ号の船体は頑丈だ。あの銛は敵船に打ち込んで引き寄せるために作った。強い風をうまく利用すればメガロドンを海から引っ張りだすことが出来る。鼻面を引きずりまわしてやるぜ。」

 シェロの顔に血の気が戻った。

「言うじゃねえか、大口屋。」

「俺の操船術を見てろ。ガ・ルーの名はだてじゃない。」

「よし、操船はガ・ルーにまかせよう。シェロ、船首に行くぞ。」

 アリーの言葉を、ガ・ルーはすばやく制した。

「まて、祭礼占い師に海水を飲ませてみろ。それで、気分の治る者もいるようだ。」

 ガ・ルーの頭のなかには常にセー・リーベ号が最重要の座にあるのだが、マイがその位置にとって変わろうとしていた。

「わかった。」 

アリーは素早く操舵室を出た。そのままデッキに走り出る。シェロもアリーのあとを追った。

「どうする。」

「バケツとロープ、海水を汲む。」

 シェロの反応は早かった。甲板には様々なロープや道具類がきちんと整理されてある。外洋船の場合は特にそうだ。乱雑な状態は命に関わる。

 シェロは布製のバケツにロープの端を結び海面に投げ込んだ。ところが海面には魚が密集し、バケツに食いつく魚までいる。

「かまわん、引き上げろ。」

 二人はロープを力一杯たぐり寄せた。

 舷側の半分ほどを引き上げたとき魚が勢いよく暴れ、バケツの底が無くなった。

「くそざかなが!目玉をくりぬいてけつの穴につっこむぞ!」

 シェロは最悪の罵り言葉を魚に浴びせたが理解されるはずもなかった。

「もう一度。」

 同じだった。どうしてもバケツに食いつく。

「まわりが全部海水で何でこんなに苦労するんだ。」

 シェロがぼやいたとき巨大な背鰭が目前に現れた。それは黒々としてあまりにも大きかった。屏風岩のような質感と重量感がある。

「シェロ、今だ。食いついた奴も逃げた。」

 バケツが軽くなっていた。バケツ好きの魚は逃げたのだ。そのまま引き上げる。

 海水を手に入れた。

「よーし。」 

 そのとき、爆発のような轟音が響いた。アリーの背筋に緊張が走りぬけた。

「銛を撃ったな。」

 シェロの叫び声は空から落ちてきた大量の海水にかき消された。メガロドンが尾鰭を跳ね上げて、海面を打ち、それが海水の瀑布となって甲板に降り注いだ。水塊がシェロとアリーを甲板に叩きつけた。

 デッキの上に逃げ遅れた魚が跳ね回った。

 

 

 

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