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トリア族がトリアードに寄せる期待は街の酒場や集会所から高まっていった。この新しい組織は絶対的なリーダーを擁さないまま人々の期待感を象徴するものになった。通りのあちこちに、六鉾星の中心に丸が描かれた印が目に付くようになった。言うまでもなく、それはトリアス第七議会と他の六つの議会の象徴であり、トリアードそのものをあらわしている。七つの議会は、ついにはアダーをトリアス地方長官に押し上げた。 この頃のアダーは地方長官である以上にトリアの総帥として強力な権勢を振るうようになっていた。 アダーは祭殿に出向いて祭事博士を訪ねた。トリアスの祭殿は寒冷な気候を避けるため、半地下に設けられている。分厚く幅広い木の板が張りめぐらされた広間で壮年の祭事博士がアダーを迎えた。長身を折り曲げてアダーに拝礼する姿勢をとっている。アダーは、博士の手を取って立ち上がるように促した。 「博士、私に拝礼は無用です。」 祭事博士はアルスという。青白いまでに白い肌と見事なプラチナブロンドの髪がガナックの出自であることを物語っている。アルスはアダーの勧めに従って立ち上がった。かなりの長身で、アダーよりも頭ひとつ分背が高かった。 アダーは祭殿の中を歩きながら話したいと言った。その方がうちとけた話しができると考えた。 「トリアスから継王を出したいのです。力のある巫女を集めて引き寄せの修法を行っていただきたい。それこそが、トリアの没落を防ぐ方法と考えます。」 アダーの言葉にアルスは戸惑った。 「巫女は継王の生まれる場所を予言するだけです。」 「本来はそうでしょう。しかし、ジェラスはラゾで一位の座にあった祭礼占い師を擁して引き寄せの修法を繰り返したといわれています。そして、ジェラの王となるべき男の子が生みだされてもう七歳になっている。」 アダーは自ら狂信者であろうとしていた。都合よく作り上げた虚構であっても、繰り返し話すたびにそれがアダー自身のなかで真実に近づいていくのである。 アダーは熱を帯びた眼差しをアルスに向けた。この祭事博士の瞳は、ごく薄い水色を呈している。冷徹な水色の瞳が、探るようにアダーを見つめた。 「巫女は神霊の住み給う場所と地上をつなぐ糸にすぎない。王の到来を待ち望む者の強い願いが王を招くのです。」 「トリア族はトリアの王の到来を心から望んでいる。」 アダーとアルスの後をヒュンデミが数歩離れてついてきている。表向きは地方長官の護衛者として控えているのだが、実際の働きは違った。暗殺や謀略を否定しながらも、その暗い魅力が次第にアダーの心を侵していった。ヒュンデミはアダーの命令を待つことなく自動的に敵対者を葬っていくようになった。側に控えさせておくだけで、話の内容を聞き、何日かの内にアダーの敵対者は確実に姿を消していく。アダーはヒュンデミをそれこそ蛇蠍のように嫌いつつ、決して手放そうとはしなかった。 「初代アトス王が王座について以来、王位不在の時代が何度かありました。その時期には必ず大きな戦乱が起きています。また、戦乱の時代には各地で継王を名乗るものが相次ぐ。祭事を司る者として申し上げます。王は一人でよい。ジェラスの王もトリアスの王も不要です。」 アルスの真意には触れずに、アダーは熱っぽく語った。 「私は戦いを否定しない。アトシスの民は争うことによって生きがいを得る。命はいつか必ず終わるものであって、生きている間はそれこそ争いの連続です。何かにつけて優劣を競うことが命の本質であると思うのです。」 アルスはアダーの横顔を見つめた。これといった特徴に欠ける平凡な姿の中に、いくつもの人格を見る思いがした。 アルスは立ち止まった。 「私には、あなたが好んで戦争を起こそうとしているように聞こえる。」 「生死をかけた戦いこそ、命を最も強く輝かせる。戦争状態に入ったとき、トリア族は最大の力を発揮するでしょう。しかし、戦いによって失うものについても考慮に入れておかねばならない。私が必要としているのは、戦闘前夜の緊張感なのです。実際に戦う必要はない。戦えばラゾにさえ勝つという力の誇示がトリアの優位を保証する。トリアはあらゆる局面で最高の位置になくてはならない。博士、あなたはジェラの豊かさを知らないのだ。脳天気で幼稚なジェラがトリアの技術を掠め取って一人豊かになってゆく。バウドはアトス王以来、ほとんどの王を輩出しているではないか。ここ数代は王位候補者すらトリアから出ていない。これはなぜだ。」 「戦えば多くの血が流れる。ジェラ、バウド、シャパは、一丸となってトリアを攻めるでしょう。トリアの血が最も多く流される。」 「トリアードが守る。」 アルスは、アダーの心象風景を見る思いがした。もし、戦いが始まって戦闘が起きたとしたら、アダーは決して後方の安全圏に引きこもってはいない、自ら描き出した英雄像に自分を重ねて、必ず激戦の最前線に立つであろう。そして、その戦いをアダーが熱望していることを感じ取った。 「トリアの戦士がいかに優秀であっても、他の全部族を相手にすることは考えられない。」 アダーは自信たっぷりに首を振った。 「いや、トリアが勝つ。」 アルスは訝しげにアダーの顔を覗き込んだ。正気を疑わずにいられないのである。 「博士、あなたには特別にお見せしよう。」 アダーは懐から見慣れない鉄製の道具を取り出した。重厚な鉄の筒からT字型をなすハンドルが伸びている。ハンドルの付け根からいくつかのツマミが突き出していて、一見しただけで極めて精工に造られている事が分かる。アダーは手馴れた様子でそのツマミを操作した。ばね仕掛けらしく、一つの動作ごとに、かしゃり、と音がする。 「あの柱。」 アダーは二十歩ほど先の木柱を、その奇妙な道具で指し示した。 ぱーん、という乾いた音がした。同時に、アルスは示された柱から木屑が砕け飛んで、ぽっかりと穴が開いたのを目にした。 「命中。」 アダーは得意げな笑みを浮かべた。 アルスは背筋に激しい悪寒を覚えた。最古の粘土板の多くに火器をへの呪詛が書き連ねられている。とくに弾丸の発射装置は、忌むべきものとして、その名を呼ぶことさえはばかられてきた。 「おぞましい。」 「いや、これこそがトリアの未来を開く鍵だ。ジェラス航路の海賊船は大砲を積んで武装している。ラゾに従う意思など毛頭ないのだ。ジェラートはそのような者たちを取り込んで巨大化した。」 「火器は炎に似ている。こちらが用いれば相手も使う。そして、その炎は次第に大きく燃え上がって自分自身を焼くことになる。」 「この銃は、設計から、製鉄、製銅、鋳造、切削、熱処理、化学調合、その他、全てトリアの最高技術の粋を集めて作り上げた。また、トリアスの技術力がなければ、たとえ同じ物を作ろうと試みたとしても暴発や不発を引き起こすだろう。トリアにはこれだけのものを作り上げる能力がある。他の部族では作れない。特にジェラなどは、粗悪なニセモノすら作れないはずだ。」 アダーは、憑かれたように語った。 「今は単発だが、今後数年の内に射程も伸び、連発となるだろう。これまでのアトシスは剣の戦いが雌雄を決してきた。その時代が終わる。一人前の戦士となるために一生をかけて剣技を磨く必要はない。銃さえあれば子供でもラゾの護衛者を倒すことができる。」 アルスは、この上ない不吉な予感を得た。 「あなたはトリアを誤った方向に導こうとしている。」 「ここまで話しても分かっていただけないのか。」 両者は完全に決裂した。 「博士、あなたには失望した。」 アルスは無言のうちにきびすを返してアダーの前を去った。 ヒュンデミが影のようにその後を追った。アルスの姿はその日のうちに祭殿から消えた。 アダーによってトリアスの巫女が召還された。祭殿の広間に六人の巫女がかしずいている。顔は見えない。青い祭礼服をまとって薄い面紗を被っている。 「ジェラスには当代一と謳われたラゾの祭礼占い師がいる。この巫女たちはその祭礼占い師の境地を越えることが出来るか。」 アダーはひどく年取った祭事官に尋ねた。 「その地位を最後まで争った巫女がおります。」 「それは誰だ。」 「顔を見せよ、シュミラ。」 一人の巫女が立ち上がって面紗を取った。背が高く、息をのむほど美しい。一部のトリア族に特徴的な陶磁器のように白い肌をもっている。 「力は優っていました。しかし、ラゾの祭事博士はシュミラを嫌いました。」 祭事官の言葉にアダーはほくそ笑んだ。 「力は優っていたのだな。」 「はい、確実と言ってよろしいかと。シュミラもまたラゾの正式な祭礼占い師だったのです。」 アダーは白い肌の巫女に尋ねた。 「ジェラスに渡った祭礼占い師を知っているか。」 「聞くまでもない。」 巫女は突き放すように答えた。 「ふん、一位の座を争ったのだからな。それで、ジェラスの巫女に優るという自信はあるか。」 「マイは柔弱すぎる。」 巫女の瞳には刺すような光が宿っている。 「どういうことか。」 シュミラは薄い水色の瞳で、アダーの側に控えているヒュンデミを見つめた。 「見ているがいい。」 シュミラの視線が錐のように鋭くなった。ヒュンデミは膝を突いたまま、みるみる顔色を失っていった。 「呪殺はもっとも強い力を必要とする。マイにはこれが出来ない。」 ヒュンデミが苦しげに顔をゆがめた。紙のように白くなっていた顔が今度は赤黒く膨らんでいく。 「やめろ。殺人は第一級の罪だぞ。」 アダーは椅子を蹴って立ち上がった。シュミラは意力を緩めようとはしない。 「かたき討ちならば、罪ではない。」 アダーの中で、水色の瞳を持った二人の人物が重なった。アルスとシュミラは全く同じ瞳を持っている。アダーはヒュンデミを嫌っていた。しかし、必要としていた。優秀な殺虫剤のように思っている。むざむざ失うわけにはいかなかった。 「おまえの父親を排除したのは、この私だ。地方長官として命ずる。今すぐやめよ。」 シュミラはヒュンデミに加えていた意力を緩めた。 シュミラはアルスの娘だった。姿を消した父親の行方を占うことで、ヒュンデミの犯行であることを知った。 「アルスはトリアードよりもラゾに忠実であろうとした。いまやジェラをはじめとしてバウドもシャパも全てがトリアの敵なのだ。わがトリアは完全に追いつめられた。もはや、血を流さずしてトリア族の未来はない。アルスの血はジェラの血によって贖う。」 巫女は薄い水色の瞳でアダーを見つめた。その瞳に戸惑いが顕れている。 「おまえに呪殺の力があることはわかった。愛する者の恨みを晴らすために私を殺したいのなら、それもよい。いつでもやるがいい。」 アダーは殉教者のように両手を広げた。そして、実際に殺されてもいいと考えていた。シュミラはアダーの振る舞いに混乱した。アダーは権力者ではあったが自己の保身を全く考えていなかった。むしろ、進んで死にたがっているようにさえ感じられた。 「愛してなどいなかった。」 アダーは殺気が逸れていったことを感じた。 「いい父親ではなかったのか。」 「よい父であったと思う。常に厳格で公正だった。」 では、なぜ愛さなかったのか、アダーは、不思議に思った。ヒュンデミに対しても憎悪の感情を持っているわけでもなさそうである。 「なんのために、ヒュンデミを殺そうとしたのだ。」 「私の力を見たかったのではなかったか。父の仇であれば殺しても筋が通る。」 アダーには、淡い色の瞳が、美しい肉体に埋め込まれたガラス玉に見えてきた。そこには何の感情も顕れていない。 「シュミラよ、トリアの台頭をかけた戦いが始まる。ジェラスの巫女に負けない最強の祭礼占い師を必要としているのだ。力を貸してくれ。いや、わがトリアードに命を預けてくれ。共に戦うのだ。」 「面白い。」 シュミラは冷たい微笑みを浮かべた。その姿は、凄まじいまでに美しかった。悪の女神にみえる。 アダーは他の巫女たちにも尋ねた。 「トリアードに全てを捧げることが出来るか。」 他の巫女たちも同様に頷いた。アダーは激しく高揚した。 「巫女たちよ、命を懸けて継王引き寄せの修法を行うのだ。継王がトリアに生まれ出たとき、おまえたちの名誉は長く語り継がれるだろう。」 ヒュンデミは蹲ったまま、シュミラの姿を上目遣いに見つめていた。その目から憎悪の炎が吹き出している。 シュミラを代表とするトリアの巫女たちは祭殿に集まって継王引き寄せの修法を繰り返した。トリアスの祭殿は厳しい気候をしのぐために、設備の多くが地下に設けられている。 丈長の青い祭礼服をまとったシュミラが半地下の回廊を歩いていると、そこにヒュンデミがしゃがみ込んでいた。シュミラは異様な体型の小男など目もくれなかった。誇らしげに大きな胸を張り、袖なしの服からのびやかな白い腕を露わにしている。 ヒュンデミはむっくりと起き上がった。巫女の前に立ちはだかる。シュミラはまっすぐに歩き続けた。息がかかるほどに近づいて、やっと立ち止まり、シュミラが初めてヒュンデミの顔を正面から見つめた。 「そこをどきなさい。」 長身のシュミラは、ヒュンデミよりも頭ひとつ分背が高い。醜い小男の姿は女神にたてつく魔物にみえた。 「おまえは美しい。俺のものになれ。」 シュミラはわずかに眉をひそめた。こんな男など怒りの対象にすらならない。 無視することにした。側をすり抜けようとしたとき、ヒュンデミの片腕がシュミラの白い上腕を掴んだ。振りほどこうとしても、骨太の手は万力のように全く揺らぐことがなかった。 「無礼な。」 祭礼占い師に対してこのように不遜な行為は許されることではない。誰よりも巫女自身が許さない。シュミラの視線が再び鋭くなった。 心臓を鷲掴みにされる感覚がヒュンデミを襲った。 「けっ。またそれか、この俺は簡単には死なねえ。」 ヒュンデミは不敵な笑みを浮かべた。激しい苦痛を味わいながらも、手に加えた力は緩めていない。シュミラの水色の瞳に軽い動揺が表れた。 「おまえと俺はそっくりだ。」 シュミラは醜い小男の言葉に目を見張った。 「愚かな。私は今でも正式なラゾの祭礼占い師、おまえのような虫けらとは違う。」 ヒュンデミは暗い青の瞳で巫女を見つめた。 「虫けらか。俺は殺し屋でしかも醜い。片腕と引き換えに安物の勲章をもらった。」 シュミラは小男の言葉を聞いていた。 「おまえは、誇り高く美しい。だが、振り返って考えてみろ。おまえの心情を愛せる者などどこにもいない。同じ嫌われ者なのさ。」 シュミラは名状しがたい視線をヒュンデミに注いだ。ヒュンデミは手を放し、すかさずシュミラの大きな乳房を掴んだ。 「この俺だけが愛してやれる。」 がつん、と鈍い音がした。拳で、シュミラが力一杯ヒュンデミの顔を殴った音だった。 再び、みたび、鈍い音がしても鍛え抜かれた男の体はよろめくことがなかった。男の手のひらはいまだに巫女の胸の膨らみを包んでいる。 「効かねえな。もっとやってみな。」 シュミラの瞳が怒りで燃えがった。祭礼占い師に対して、これほどの冒涜は考えられない。 「許せぬ。」 シュミラの美しい顔が、凄まじい険しさをあらわした。その視線が注がれると、ヒュンデミは脳味噌を掻き混ぜられる感覚を味わった。急速に視野が狭まっていく。かつて味わったことのない激しい痛みが全身を駆けめぐった。 「どうなろうと気にしねえ。その前に、、、おまえを抱いてやる。」 ヒュンデミはシュミラの乳房をむしり取るほどに強く握った。 「ぎゃっ。」 シュミラの両手が、乳房の痛みに耐えかねて宙をまさぐった。また、意力も消え去った。 「へっ。俺の勝ちだな。」 それだけ言うとヒュンデミはシュミラの体を押しやった。 シュミラは床に倒れこんだ。 「今日はこれぐらいにしておく。忘れるな、俺は、いつでも、おまえの前に現れる。」 シュミラは悔しげに男をにらんだ。 「はじめて俺を見上げたな。おまえだけは、必ず手に入れる。」 ヒュンデミは巫女に背を向けて歩き去った。 翌年、シュミラは自ら継王候補者となるべき一人の男の子を産んだ。その子は祖父の名をとってアルスと命名された。 再び、英明王の時間に戻る。 祭事大臣は収穫祭の準備に追われていた。 各地の祭事官を呼び集めて儀式の打ち合わせを重ねる一方で、カルバ自身の意識を研ぎ澄ましていかねばならない。祭壇には各地方からの特産品が集まり始めた。これらの品は前夜祭が終われば集まって来た人々に開放される。この祭には賑わいを求めて遠い地方からも大勢の人々が集まってくるのである。 さらに今年に限っては、各地の地方長官も招かれていた。大法要をあわせて行うことで継王候補者の選出を行うのだ。気の早い地方長官は地元の子供たちを百人単位で連れて来ている。ラゾと周辺の地域はかつてないほど人々でごった返していた。収穫祭は三日間に渡って行われる。 ウルはカルバの側を離れなかった。長年、護衛者として鍛え上げてきた勘が老大臣の危機を伝えている。 カルバが祭壇に向かって祈っているとき、あるいは回廊を歩いているとき、カルバに向かって青い光が投射されるのを何度か目撃した。この光はウルにのみ見えるものである。相手の攻撃に先立って放射される気配が青い光となって目に映るのだ。その度ごとに素早く剣を抜き放ってカルバと光の間に回り込み、自分の身を盾として守ってきた。暗殺者は姿を見せることがなかった。雑踏の間から殺意だけを送り込んできた。 そして今もまた、背筋に伝わってくる気配がある。ウルは、祈りを捧げる老大臣の後ろにまわりこんだ。収穫祭においては、いくつかの広間、回廊、広場を祭壇として用いる。粘土板の記述によると、小さな台に収穫した物を置いて神霊に見せ、感謝の祈りを捧げたのが収穫祭の始まりだという。現時代のアトシスにおいては、各地の特産物を並べようとすれば、かなり大きな台でも収まるはずもない。果物や塩漬け肉、穀類、芋などの食品、ガラス製品、陶器類、刃物などの道具類、木製収納用品、など祭壇全体が見本市会場の様相を呈している。祭りの始まりと同時に、この広大な祭壇は人々が見て回れる市場に早変わりするのだ。 一段高くなった石造りの台に跪き、カルバは天地の精霊を呼んで感謝の祈りを捧げた。周囲には何人かの祭事官が同様の姿勢をとっている。喧噪に包まれた広間に、その場所だけ、しんと静まった異界が出現したように思えた。 ひゅっ、という音に重なって金属が激しくぶつかり合う音がした。ウルはカルバに向かって投げられた棒状の金属を剣の腹で弾いた。十分な威力、間違いなくカルバに致命傷を与えるだけの慣性を持った棒手裏剣であった。刃の部分には青黒い毒まで塗り込んである。 「今の音は、、、。」 カルバは祈りを中断して振り返った。床に落ちた鉄の棒を見て眉をひそめた。 「やはり、儂を狙う者がいる。命は惜しくない。が、あと数日。その間は死ねぬのだ。」 カルバはウルを見、ウルが頷くと再び祈りを始めた。祭事官たちが血相を変えて近寄ってきた。 「しばらく。」 ウルは手をあげて、近寄らぬよう制した。祭事官たちのまわりには祭りの準備のために忙しく働いている多くの人々がいる。カルバの命を狙う者はその中に紛れ込んでいたようだ。背筋の感覚が消えている。 「祈りをお続け下さい。暗殺者は去ったようでございます。」 カルバを守っている者がもう一人いた。ロフウというジェラ族の若者である。ウルがカルバの側にいるときは、少し離れた場所から周囲の警戒にあたっている。 棒手裏剣の攻撃を防いだウルの手腕は見事だった。ロフウは、自分なら防ぎ得たかどうか疑問だと思った。そのかわり、ロフウは暗殺者の姿を見極めることに成功した。 信じられないことに、それは宮殿の護衛者の一人だった。ラゾの護衛者の人選は極めて厳しい。ロフウは不敵な笑みを浮かべた。相手にとって不足はなかった。ロフウは、去って行く護衛者を付けることにした。後ろから見ると異様に肩幅が広く、おまけに右手が金属製の義手である。護衛者の数がいかに多くても、見失なうおそれはなかった。ロフウは自分の気配を周りの人混みに紛れさせてあとを付けた。護衛者はロフウに気がつかなかった。周囲を適当に歩き回ってから、別の護衛者に近づいていき何事かを小声で話し合った。 ロフウは二人の護衛者の顔を頭に焼きつけた。陰鬱な表情は、普通の会話の雰囲気ではなかった。おそらくは二人ともがカルバの襲撃に加担していることは間違いない。ロフウはさらに尾行を続けた。暗殺の不首尾は首謀者に向かって伝えられていくはずである。次の護衛者はまっすぐに警護省の役人詰め所に向かった。まわりの人混みが有り難かった。ラゾの回廊は普段はがらんとして自分の足音の反響すらうるさく感じる。今は喧噪と大勢の行き来がある。ロフウは迷わず役人詰め所に入っていった。ジェラスからの護衛者であっても、ラゾの護衛者と同等の扱いを保証されている。目的の護衛者は警護省の高官が使用する執務室へ向かった。これ以上の尾行は無意味だった。 警護省の深い部分にまで共謀者が潜んでいる。ロフウはこの事実をすぐにアリーに伝えなければならなかった。特に重要な情報は、速やかに知らせるよう命じられている。 英明王は、アリーとの再会を喜んだ。アリーがラゾに来ていると聞いて、半月が経っていた。王は僅か半日の自由時間を作るために半月の時間調整を必要とした。 二十年の歳月も過ぎ去ってしまえば短い。共に学んだ日々をほんの昨日のことのように感じる。懐かしさが当時のままの思いを呼び覚ました。 「アリー、この俺をずいぶん長く待たせたな。」 「すまない。ジェラートを作り上げるのに掛かりきりだった。王の苦労ほどではないかもしれないが、僕もずいぶん努力したぞ。」 英明王の表情は久しぶりに緩んだ。巨体を椅子に預けて笑みを浮かべている。広い謁見室に二つの椅子を並べて話している。アリーは王を見上げながら話す形になった。英明王はアトシスに時々生まれてくる巨人であった。怪異な容貌ではない、ただ体のすべての造作が通常人の三割がた大きくできており、非常な怪力の持ち主であった。歴代の王の中では初代王のアトスが同様の巨人であったという。 「英明王の称号を得たのは、ジェラートの力に因るところが大きい。改めてそのことに礼を言う。ラゾで打ち出す政策がことごとく的中したのもジェラスの貢献があってこそだ。」 「君は良くやった。仮に僕が王になっていたら、アトシスに大きな混乱を引き起こした可能性が高い。ジェラスがラゾの役に立ったのも君の判断が正しかったためだ。王は自らの意思でなるものではない、周りの者が選ぶのだ。僕がラゾを去ることになったのは僕を排除しようとする力が大きく働いたせいだが、今ではその時点で王たる資格がなかったものと考えている。」 英明王は軽く頷いた。王となって様々な実務をこなすうちに、王の自覚を背負い込んでいた。アリーは続けて語った。 「今になって思うんだが、王の選出システムは良くできているよ。祭事官たちは候補者を選ぶ際に、未来の様々な可能性について、それに対応すべき人材を各種用意しておくということだ。無論、彼らはそのように意識してはいない。あくまでも神託として受け取り、占い師の言葉に従って候補者を選ぶ。その機能がうまく働かなくなったときが問題だ。」 「ああ、そして、今がその時だ。」 王の表情が少年の頃のものに変わった。 「アリー、俺は自由になりたいんだ。」 名誉と個人の欲求の狭間で王は苦しんでいた。アリーにはその気持ちが誰よりもよくわかった。ドウはもともと生物の研究をしたいと言っていた。十五年の間、王を勤め上げたことは義務以外の意味を持たなかった。 「気持ちは分かるが、君は最大の名誉を手にした。それを忘れるべきではない。」 ドウは首を振った。 「名誉か。俺の名が書かれた特別製の粘土板が後代に残る。でも、そんなものが何になる。今ではいつになったら解放されるかのほうが重大事だよ。この二十年、ラゾから一歩も出ていない。いかにラゾが広いとはいえ、まるで籠の鳥だぜ。この巨体を閉じ込める最上級の鳥かごだ。歴代の王も多忙だったようだが、これほどではなかったと思う。」 王はアリーに愚痴をこぼした。アリーは英明王の少年の部分を見いだして軽いため息をついた。言葉遣いまで少年の頃に戻っている。 「収穫祭で法要をやるだろう。」 「そうだ。あと四日で、目途が立つ。」 「これからは少しずつ自由な時間を増やしていけるさ。」 「そうあって欲しい。」 アリーは、ジェラートの力で英明王を援護してきた、それでもなお、ドウ個人に対する謝罪の必要を感じた。 「ジェラスの地方長官と、僕がラゾを去るときに連れていった祭礼占い師が、継王についてやたらに占いを行った時期がある。ラゾで継王に関する予言が生まれなくなった原因がそこにあったのではないかと気を揉んでいる。」 英明王は、大きな手を顔の前で振って見せた。 「マイのことだね。君が謝る筋合いはない。自分たちの部族から王を出したいと思う気持ちは理解できる。それで、何らかの成果はあったのかい。」 「僕に代わってジェラートを統率できる者が育った。ガイという名だ。ちょうど、ラゾに来ている。ジェラスの特産物を見本市で紹介する仕事をしているよ。」 「ここにいる間に会っておきたい。」 「必ず寄るように伝えておく。」 英明王は椅子から立ち上がり、巨大な木製机に向かって歩いた。アリーには、目の前で揺れる白いマントが劇場の垂れ幕に見えた。 王は声を低めて言った。 「カルバが、警護省長官を更迭するようにと言っている。トリアス出身の有能な武官だ、君ならどうする。」 「言うまでもないだろう。祭事大臣の進言は最も尊重しなければならない。すぐに交代させるんだ。ここ数世紀は平穏な時代が続いた。それは危機に対する準備を怠らずに護衛者の資質を向上させてきた賜物だ。本来、護衛者はすべて戦士だ。警護省はもっとも王に近い位置に設置しておかなければならない。」 「うーん、困った。」 「ドウ、ジェラスの戦士を配置しよう。彼らは命を懸けて君を守る。」 王は笑った。 「俺には護衛者なんかいらない。」 「君を死なせるわけにはいかない。内乱が起きるぞ。アトシス全体のためでもある、正式な後任が決まるまで護衛者の指揮権をジェラス議会に与えてくれ。」 英明王はアリーの切迫した表情に驚いた。 「アリー、どうしたと言うんだ。俺が命を狙われる筋合いがどこにある。君がラゾに乗り込んできてから、情報省の粘土板関連事業についても半ば無理矢理にジェラス議会が指揮権を吸い上げていった。今度は警護省かい。他の二十二の議会が黙っていない、ジェラス議会の突出は疑問だ。」 英明王は机に軽くもたれる姿勢で立っていた。アリーは自分が小人になった気分がした。ドウは既に昔のドウではない。物腰にぐっと重みが増している。 「ドウ、頼む。僕の進言に従ってほしい。」 英明王は、幼い頃からの友の切実な表情を見つめた。 |