ジェラスでは道ばたにでも宝石の原石が転がっていることがある。鉱脈を探して掘ればそれこそ大量に採取出来る事はよく知られていたが、積極的にそれを試みる者はいなかった。宝石は大地の贈り物として、偶然に見つかることが良しとされていたのである。

 農産物の増産が続いている。そしてこの年、ジェラス特産の宝石が大増産される出来事が起きた。畑を開墾していくうちに宝石は次々と発見されていた。そのうち宝石がぎっしりつまった一本の鉱脈が発見されたのは、あながち偶然ではない。畑を放棄して宝石掘りに転身する者が増えた。

アトシスでは土地を私有する制度は存在しなかった。空間を私有することは、空気を所有物とするのと同じくらいに不自然なことと考えられた。大規模な移動を繰り返すことで、狭い場所をなわばりとする意識が定着しなかったのかもしれない。ただし、建物を自力で建てたり、畑を耕して作物を植えればその土地を使用する権利が生じた。自分の手で宝石を掘り出せば、その所有が認められるのだ。

 鉱脈の近くでは道ばたにでも質の落ちる原石が縁石代わりに並べられるほどになっていた。シェロはアリーとともに宝石の採掘場を視察していた。

「こうなると、宝石の値打ちは暴落してしまいます。」

 シェロは道ばたに転がっている青い石をつまみ上げた。透明感はないが、それなりに美しい。アリー・ジェラも実状を見て驚いた。

「掘り出す量を制限するしかないね。」

「中央政府に管理を任せますか。」

「ラゾは基本方針を決めるだけだ。現地の対応はジェラートでやらざるを得ない。程度の悪い役人にまかせたりすると、混乱と退廃を生み出すことになる。」

 アリーはジェラートの権限をさらに強化する必要に迫られた。交易は順調であり、ジェラートがなすべき役割は日に日に大きくなっていた。アリーはそれを統括すべき地位にある。実務の量は増える一方だ。

 シェロは、アリーのジェラートにおける直属の部下となっていた。今では野盗の雰囲気はみじんもない。長い顎には銀色のひげが伸び、哲人の風格さえ漂っている。もともと教養はあったのだが官吏として行動する際には言葉遣いまで変わった。

「この鉱脈はジェラートで管理しよう。しばらく閉鎖だ。」

「では早速そのように手続きをします。」

 シェロは祭殿とジェラスの各地を行き来し、時には交易先へも足を延ばすという非常に忙しい体であった。半年前、そのシェロが宮殿の厄介小僧、ガイの非常勤教育係を命じられたことは大いなる悪夢であった。

「ガイの学習状況についてですが、あれはさっぱりものになりませんな。ジャバもマイも、その他大勢の教師がほとほと手を焼いています。」

 アリーの顔が曇った。

「まだ六ヶ月だ。辛抱強く取り組んでくれ。ラゾにいた頃、歴代の王の粘土板を写し取った書を読んだことがある。大抵は幼少の頃から利発であったことが記されているが、なかには子供の頃の記述がないものもある。」

 シェロの口が何か言いたげに開いたが、また閉じられた。

「シェロ、言いたいことは分かる。ガイのような子供時代を過ごした王がいたことの証にはならない。しかし、世の中には少々変わった発達の過程を経る者がいる。」

「我らもそう信じて取り組んでおりますが、いまだに一冊の本を読み終えることすら出来ません。途中で放り出してしまうか、癇癪を起こして破り捨てるかです。先日、ジャバの代わりにその生活態度を改めるべき躾の授業を受け持ちました。厳しくするとその時だけは私の言うことに従うものの、少し目を離すともう同じです。」

 アリーは、額に手を当てた。シェロが愚痴をこぼすのは珍しい。アリーは、ジャバと巫女たちが行った修法について、詳しい状況報告を受けていた。候補者選びについて何らかの間違いが起きたとすれば、その地位を捨て去った自分にも責任があると考えるようになっている。

「僕も祭殿に寄ったときは、ガイに会い、出来るだけ手助けをすることにしよう。必要ならば非常勤教育係をかって出てもいい。」

 シェロには宝石の鉱脈がガイと関係があるように思えてならなかった。

 このようなとき、自分の解決できない問題を相談できる相手があることは幸せなことだろう。特に、見識があり客観的な判断が下せる人物の存在は貴重である。マイは優れた祭礼占い師だが当事者である。シェロはマイのような人物をもう一人知っていた。祖母のシェビーダである。十年前に何となく故郷を出てから一度も会っていない。

 ジェラートの交易相手として早くから交流があり、シェロにも何度も出向く機会があった。何くわぬ顔で帰ればいいものを、相談なしで出奔したことを責められそうでなんとなく敬遠してきた。アーダからの便りによると、シェビーダは高齢にも関わらず、ますます元気であるらしい。ジェラスの新鮮な果実を食べるようになったせいか、長年患った眼病すら治っているという。

 ピチェの村に帰ってみよう。シェロは、そう考えた。

「ガイを伴ってシェビーダに会ってみようと思います。今の季節ならブノワ河のほとりにパオを建てていると思う。予定を調整すれば一月ぐらいは何とかなるでしょう。」

 広々とした大河と草原の風景がアリーの脳裏をよぎった。アリーは端正な顔に懐かしい思いを浮かべた。

「それはいい。ガイの問題は重要だ。最優先で取り組んでくれ。シェビーダとは根本的な考えの違いがあるけれども、あの婆さんには信念がある。できるなら、僕も行ってみたいよ。」

 アリーに自由な時間はなかった。宝石鉱脈の視察後にも、ぎっしりと予定がつまっている。アリーとシェロは、すぐに別行動をとる予定になっていた。二人が今後の打ち合わせをしていると、宝石掘りがシェロに近寄ってきて声をかけた。

「いい物が出たんだが買わないか。」

 シェロの身なりは非常に豪華になっていた。間違いなく御大尽の雰囲気がある。それに比べてアリーはいまだに質素な服装を好んだ。

「ちょっとこれを持っててくれ。」

 宝石掘りは、肩にかついだ鶴嘴をアリーに押しつけて腰の袋をまさぐった。アリーはその長い工具を受け取り、宝石売りの仕草を興味深く見た。

「これなんかどうかね。」

 無造作に革袋から取り出された石を見て、シェロは唸った。棒状に伸びた結晶体で透明度が高く、深い青色を呈している。陽光を強く屈折させるためか、手に取って見ると七色の光が踊って見えた。宝石に興味はなくても、その石は文句無しに美しいと思った。それに、ふるさと帰りの土産にすれば喜ばれることは間違いない。

「いくらで売りたいのか。」

 宝石掘りは、明らかな手応えを感じてほくそ笑んだ。近頃はよほどいいものでも仲買人が安く買いたたく。

「一ベキルでどうかね。」

 宝石掘りは大いにふっかけたつもりだった。

「いいだろう。」

 意外にもあっさりと交渉がまとまった。

 シェロは太陽の光で石を透かし見てからポケットにしまった。

「赤いのもあるんだがね。とても珍しいんだ。」

 鉱夫はジェラスの一ベキル金貨を大事そうに懐にしまった。ジェラスの地方金貨はアトシスの正規金貨よりも信用度が高く、実際の価値はそれより高かった。鉱夫が差し出した赤い石は先ほどのものよりもさらに見事だった。血のように赤い。初夏の太陽光線が赤い光の点を地面に投げかけるほど透明度が非常に高い。

「十ベキルでどうかね。」

「あーん?」

 これはちょっと欲張りすぎた。シェロの顔が野盗時代の頃に戻った。腹積もりとして、三ベキルぐらいは出してもいいとシェロは考えていた。シェロはジェラートにおける交渉ごとの専門家であり、相手の心を読み取ることが巧みだった。調子に乗るんじゃねえ、数年前ならそう言うところだ。

「仲買人に売っていたら、赤と青両方で一ベキルにもならないだろう。しかもジェラスの金貨でなく質の落ちる正規金貨との交換で、結局おまえの苦労は安く買い叩かれる。」

 シェロは諭すように語った。

「その石は二ベキルにしておけ。」

 年月と経験は人を変える。

 宝石掘りは屈託なく笑った。

「それでいいよ。」

 ジェラスの農民は基本的に純朴な性格を持っている。この宝石掘りも農民の出身であった。

「あっさりした奴だな。よし、それに免じていいことを教えよう。畑に戻り、その金で種を買って蒔け。新しい品種でセム二十一号という果実の種だ。宝石の値段は崩れる一方だ。この場所で大儲けができる時期は過ぎた。この鉱脈はジェラートが管理することになる。詳しいことは後で担当者が来て説明するだろう。」

 宝石掘りは腕を組んで考えた。

「ふうん、それもいいかもな。近頃じゃあ、いい石が出ても誰も以前ほどには喜ばないんだ。セム二十一号だな、覚えておくよ。」 

 宝石掘りは、気楽な調子で歩き去った。

 シェロは宝石掘りの気楽さが羨ましくなった。   

 

 ジェラスの宝石鉱脈が大量の金貨を吸い寄せているニュースは、いち早くトリアスに伝えられた。それを受けて、トリアス第七議会が緊急召集された。その席にはかつてジェラスに潜入していたアダーの姿があった。ヒュンデミはアダーの配下となって側に控えている。

トリアには全部で七つの議会があり、第七議会は最も国粋的で急進的な議会とされている。

「ジェラスには何でもある。雨、陽の光、肥えた土、そして今度は宝石か。」

「宝石は磨き上げて初めて価値が生まれる。ジェラスには高度な研磨技術などない。いずれトリアの技術が求められるだろう。」

 議員たちの反応はおおむねジェラスへの羨望とトリアの技術力への自負だった。トリアには様々な地下結社がある。アダーやヒュンデミの属する組織は、表向きはトリアス第七議会に所属する右派政党である。党員はトリア議会の議員であり、結社の委員は必ず議員職を兼任していた。アダーは結社の委員となって強い発言力を持つようになっていた。

「石の研磨などどこでも出来るさ。トリアスの出番などあるものか。」

 アダーは冷笑を浮かべていた。議員たちはアダーに注目した。

「それよりも、ジェラスの継王が決まりそうだ。アリー・ジェラの二代目だよ。」

 アダーは立ち上がって議場を見回した。この情報はアダーの配下から新しくもたらされたものである。

「王はラゾにしかいない。」

「ふん、ではアリーとは何物だ。まさしくジェラの王ではないか。ジェラは今やトリア全体を揺さぶっている。虎を野に放ったのと同じだ。」

 アダーは、アリーを継王候補から引きずり下ろした謀略をこき下ろした。

「ジェラスの王がトリアの繁栄を奪うという予言は見事に的中したわけだ。それどころかトリアはジェラに追いつめられた。予言を避けるすべはない。今後、謀略ごっこは禁止だ。」

 アダーにこき下ろされて、アリーに関する工作を計画した古参の議員が立ち上がった。大柄な体に乗っかった顔が怒りで赤黒く膨れている。

「無能な暗殺者が失敗を重ねたせいだ。アリーさえ始末すればジェラを統括出来る者はいない。」

「まだそんなことを言っているのか。ジェラは変わったのだ。アリー・ジェラを中心にジェラートという強力な組織がジェラス全体を動かしている。近頃ではシャパ、カーグス、バウドスにも強力に働きかけている。暗殺などという姑息な手段ではもはや対応できないのだ。ジェラートに対抗しようとするなら、もはや全面戦争しかない。」

 ヒュンデミは席を立った。 

「気が狂ったか。軍による戦争の時代は終わった。それに戦って勝てる見込みがあるのか。それだけの経済力がトリアスのどこにあるのだ。暗殺こそ最も少ない犠牲で最大の効果を上げる手段だ。」

 暗殺好きの議員はさらに言い募った。アダーは冷ややかな視線を向けていた。ヒュンデミがそっとその議員の後ろに回り込んだ。

「暗殺や謀略は誰の支持も得られない。そして、やがては自分の墓穴を掘る。」

 アダーは人差し指を首の前で水平に移動して見せた。その合図に合わせて、古参議員の首から鮮血が噴出した。ヒュンデミは無表情に床に崩れ落ちる委員を見下ろしていた。片腕を失ったことは暗殺術の障害にはならなかった。むしろ、予測不可能な短剣さばきが身に付き、さらにまがまがしい存在へと変貌を遂げていた。

 議場は騒然となった。  

「騒ぐな。無能な議員がひとり消えただけだ。」

 議場の護衛者は、微動だにしない。全て、アダーの配下によって固められている。アダーはこの日のために同意見の委員に図って周到な準備をしていた。アダーに付いた委員はセーバ、ファルスなど後にラゾの要職に就く者もいた。

「こんなことが許されと思っているのか!」

と、議場のあちこちから怒号が吹き上がった。

 アダーは悠然と議長席に向かった。その不遜な態度に反感を抱いた議員は、憤然と席を立った。短剣を引き抜いてアダーに投げつけた議員もいた。アダーはそれを避けようとはしなかった。胸元を掠め飛んで床に突き刺さった短剣にちらりと目をやって、片手を高く差し上げた。トリアの護衛者たちが、すみやかに行動を開始した。

議場に甘い血の匂いが充満した。第七議会の議員、約百名のうち二十名もの議員が瞬く間に絶命した。屍が床に転がされたままの議場をアダーは議長席から見下ろした。

「ジェラは成金だ。本当の金の使い道を知らない。我らは少ない資金を新兵器の改良につぎ込む。」

 アダーは懐からハンドルの付いた黒い鉄の筒を取り出した。

 ぱーん、と乾いた音がした。アダーは銃口を絶命した議員の死体に向けて続けて六発撃った。そのたび、死体がびくびくと動いた。

「見たまえ、六連発銃だ。これさえあれば、いかに熟達した剣士でもいちころだよ。これを大増産してジェラもバウドも屈服させてやる。それと、ひとつ明るいニュースを披露しておく。アリー・ジェラの後継者は、間違えて選ばれたようだぞ。ずいぶんブチ切れのガキらしい。」

 アダーは一人でくすくす笑いを始めた。呆然とした議員たちの顔を見て、やがて腹を抱えて笑った。

 

「ガイ、今日からおまえは私と一緒に旅に出る。船に乗って海を渡り、しばらくしてまた帰ってくる。わかるな。」

 ガイは母親譲りの緑の目を大きく見開いた。たび?うみ?ふね?ガイは新しい刺激の予感に目を輝かせた。ガ・ルー譲りの美しい顔立ちと印象的な緑の瞳がシェロの顔をほころばせた。こうして見ると利発で素直な少年に思える。ガイはこっくりと頷いた。

「よーし、えらいぞ。」

 ガイは誉めてもらってうれしくなった。母のマイが祭殿の前で泣いている。ジャバもだ。なぜ泣くのだろう、あのうるさいおじいさんにしばらく会わなくて済む、という思いが、ガイの心を軽くした。シェロは怒ると恐いが、何かに火を点けたり壊したりしなければ何ともない。

 シェロは馬に跨り、ガイを鞍の前に乗せた。馬のリズミカルな走りが、ガイの心をときめかせた、馬に乗ると馬の気持ちが理解できて楽しいのだ。人を乗せて走るのが好きな馬に乗るとガイも心から楽しくなれた。

「わー!」

 ガイは突然に叫び声を上げた。同時に馬の胴に蹴りを入れる。馬は驚いて飛び上がった。馬の扱いに慣れたシェロでなければ、振り落とされていたところだ。急に走り出した馬の背でガイははしゃいだ。

「もっと、はしれ。もっともっと。」

 ガイが黄色い声をあげて馬をはやし立てる。飛び上がった馬に振り落とされそうになったシェロのうしろ姿を見送りながら、ジャバが頭を抱えた。

「シェロ、たのむぞ。」

 ジャバは心からの願いを呟いた。

「これが我らの乗り込む船だ。」

 シェロの指差す方向にセー・リーベ二世号が軽やかに浮かんでいた。

「いい船だろう。」

ガ・ルーが岸壁で二人の到着を待っていた。初めてジェラスに渡るのなら父親の船で、というマイの意見が尊重された。祭殿の壁にこれと同じ形をした物が浮き彫りになっていたことをガイは思い出した。ふね?ガイの頭にぴりっとした刺激が生まれた。何か面白そうな予感がある。ガイの心は、刺激を求めてはちきれそうになっていた。

 船上では初めて見るものばかりだ。真っ白な帆。太いロープ。どれも、面白そうな遊び道具に見える。特に大きな帆を引っ張っているロープにナイフを当てるとどんな切れ方を示すのかが知りたい。ガイの目は目の前の麻ロープに釘付けとなった。

 ガイはシェロが目を離した隙に腰の短剣を引き抜いて、そっとロープのねじれ目に当てがった。大きな張力に耐えているロープはひとりでに切れるようにぷつぷつと繊維が弾け切れていく。ガイは夢中になった。こんな面白い切れ方は初めて見る。三本の太い撚り合わせの内の一本が、ぶっつりと音を立てて切れた。大人の親指ほどの撚り合わせが派手にほぐれる。 甲板長が異変に気がついた。撚りあわせの切れた一本が派手に広がって風になびいている。

「うわー、このガキ!なにしやがる。」

 悪相のボーシンが走ってくるのに気が付いてガイはすくみあがった。最悪の人相に埋め込まれた険悪な目が怒りに燃え上がっている。これほど恐ろしいものは初めてだった。

 ガイの頬に強烈なビンタが飛んだ。ガイが甲板に吹っ飛ぶのに気が付いてシェロが駆け寄ってきた。甲板長は少年には目もくれず、すぐに新しいロープに交換するための準備を始めた。メインセールを支えるロープなのである。シェロはすぐに事情を飲み込んだ。

「大丈夫か。」

 シェロは抱き起こしたガイの目を覗き込んだ。緑の瞳に激しい恐怖と怒りが渦巻いている。不思議なことに、その怒りがシェロの中にどっと流れ込んできた。シェロはこの奇妙な体験にひどく戸惑った。なぜか無性に腹が立つのだ。

「くそっ!なんなんだ。」

 シェロはボーシンを殴り倒したくなった。昔なら文句なく思い通りにしたはずだが、今は違う。ガイにはマイ譲りの感応力がある、しかも発信型の。シェロがその事実に思い当たるのにさほどの時間は要しなかった。

「これが、ガイの力か。」

 シェロは意力をふりしぼって怒りを押さえつけた。

 クルーが集まって、ロープの交換作業が始まると、ガ・ルーが様子を見にきた。

「この切れ方は何だ。」

 ガ・ルーの憤然とした質問にボーシンは、顎をしゃくってガイを示した。

「ガイが切ったというのか。」

 ガ・ルーはこれ以上ないという情けない顔になった。セー・リーベ号はガ・ルーの命なのだ。そして、ガイもまた同等の位置にあった。

「ガイ、船を傷つけるんじゃない。わかるか。」

 ガ・ルーは優しくガイに語りかけた。ガイの機嫌はもうなおっている。無邪気な笑顔で応えるガイを見て、シェロは大きなため息をついた。

 

釣りをするのが日課になった。

 海の風を感じて航海するのは気持ちが良い。潮が青くきらめいているとさわやかな気分になる。ところが、その爽快さも、四、五日も経てばすっかり慣れてしまい、当たり前になってしまう。いかに大きな船といっても大きめの建物よりは狭いのだ。家に閉じこめられて、毎日同じ顔ぶれを見ているのと変わらない。

 そのような退屈を解消するためには、釣りをするのがいい。シェロはそれを知っていた。シェロの好む釣りは、長い紐の先に浮きと鉤針を付け、船尾から流しておくという方法である。船は波を切って進んでいくため浮きが引っ張られて船から離れた波間に浮き沈みする。鉤針にはきらきら光る薄い金属板を適当に切って取り付ける。これが疑似餌となって大物だけを狙う釣りとなる。

 ガイはシェロの釣りを見ていた。他の船員の近くで遊んでいると、容赦なく怒鳴られる。何をしでかすかわからない小僧としてガイの名は知れ渡っている。船尾部分は割合広く、クルーの姿もない。今のところ、ここだけがガイの居場所だった。

 突然、紐に大きな力が加わった。水面下にゆるりと流れていた紐が、引っ張られ、白い直線となって波の上に現れた。

「よし、かかったぞ。」

 極彩色の魚が海面上を跳ねた。大人の片腕ほどの細長い魚である。シェロの軽い興奮がガイにも伝わった。

 シェロは紐を緩めたり引いたりしながら、魚を引き寄せていった。ガイが、たぐり寄せた紐の端をしっかりと握っている。シェロはそれに気づき、ガイに引き上げさせてみようと考えた。子供でもあれぐらいの魚なら何とか上げることが出来るだろう。

「やってみな。」

  シェロは紐を放り出してガイの後ろに下がってしまった。たぐり寄せた紐は再び海に繰り出してゆき、再びピンと張った。魚からの全負荷がガイの握っている紐にかかった。ガイの意識に、鮮やかに明滅する光が現れた。

「ガイ、足を踏ん張れ。」

 ガイは海に引き込まれないように足を踏ん張り、シェロの指示に機敏に反応した。一本の長い紐によって、互いの生存を賭けて引き合う。ガイと魚が紐を介し本能的な部分でつながった。

 祭殿では決して味わえない感覚。厳重な保護が行き届いて一切の危険がない場所、それはガイの根本的な生存の能力を眠らせる場所であった。

「ぼやぼやするな。引き込まれるぞ。」

 シェロの厳しい指示が飛ぶ。ガイは次第に消耗してきた。魚は躍動感にあふれている。力強く水面を跳ね、水中に潜った。ガイの頭に、ふと、良い考えが浮かんだ。くるりと海に背を向け、紐を肩にかけて甲板を走る。

 魚との均衡が破れた。その姿が船尾の水面にまで上がってくると、急に負荷がなくなり、ガイは前につんのめって倒れた。

「考えたな、ガイ。」

 真剣に争った魚がガイの目の前にぶら下げられた。魚は鰓呼吸が叶わなくなって急速に弱った。シェロは釣り針を外して魚を海に戻した。

「こいつはもっとでかくなる。逃がしておこう。」

 ガイはその様子を活き活きとした表情で見つめた。

 船は十四日でブノワ河に着いた。埠頭には活気が溢れている。船はジェラスの特産物を満載しており、港の人々は定期的にやって来る輸送船を待っていた。陸揚げされる荷物を市場の関係者、物売り、荷受け人が騒々しく分配していく。シェロはガイの小さな手を取って喧噪を抜け、河を上る船に乗り換えた。

 故郷の村に近づくと馬を調達してさらに川沿いに遡ってゆく。風景は十年前と少しも変わらなかった。河は相変わらず豊かな水をたたえている。草原の草花も同じだった。シェロの視界に入るもののなかで以前と変わったのは、自身の豪華な服と鞍の前におとなしく座っている少年だけだった。故郷の馬は精悍で猛々しく、体もひとまわり大きい。馬は軽い早足で進んでいた。面白いのは、ガイが騎馬民族の子供のように極めて自然に馬に揺られていることだった。

「それっ。」

 掛け声とともに馬は勢いよく走り始めた。

ガイは馬と一体になり、楽々と乗りこなしている。

「もっとだ、もっと速く。」

 シェロは馬を思い切り走らせた。速く走れば走るほど、ガイの騎馬姿勢は良くなった。

 街道から脇にそれて丘を進む。

 これが近道であり、昔からある道である。ふと気がつくと何人かの男が馬に乗って遠くを駆けているのが見えた。服装や馬の乗り方で同族の者たちだと分かる。このあたりはもうピチェが行き来する場所である。男たちは、シェロと同じ方向に駆けながら次第に距離を縮めてきた。

 止まれ、と手で合図してきた。シェロは何も不審に思わなかった。自分を知っている者がいれば、パオまで同行させようなどと考えていた。

「すげえ服を着てるじゃねえか。おっさん。」

 四人の若者だった。シェロを知る者はいない。

「服と剣を置いていけ。さもないと痛い目にあうぜ。」

 なかなか堂に入った脅し口調であった。

 シェロはうんざりした。自分の豪華な服を見て野盗の練習をしているらしい。昔はシェロも同類だった。過去の自分を見るようで情けなかった。

「ガイ、頭を伏せろ。」

 ガイは素早く反応した。シェロは腰に下げていた剣を抜き放ち、側にいた若者の顔を剣の腹を使ってびしりと打った。平手打ちよりはずっと鋭い音がして、若者が転げ落ちた。鉄の板だから掌よりは痛かっただろう。残りの三人は意外な展開にひるんだ。

「パオまで追ってこい。」

 馬を走らせると、少し遅れて若者たちが追って来た。必要以上に近づいてこない。若者たちは、正確に自分たちの本拠地を目指して走る後ろ姿を何となく思い出し始めていた。馬を走らせるときの癖に見覚えがあるのだ。最も年長の若者がシェロの名を思い出して、馬を止めた。

 こわーいシェロおじさん。

 顎が髭で隠れていたため気が付かなかった。

「まずいぞ。あれはシェロだ。」

「誰だ、それ。」

「知らないのか、シェビーダがいつも言ってるだろう。ジェラスに渡って偉くなった人だ。戻ってきたんだ。」

「どうする。やたらに手の早いおっさんだぞ。」

「村に帰ったら、顔が曲がるほど殴られるのは間違いない。」

 若者たちは、ほとぼりが冷めるまで村に帰らないことに決めた。

「ガイ、素早く伏せたな。えらかったぞ。」

 若者たちから発散されていた雰囲気は、ガイにとって初めて感じる種類のものであった。そして、シェロの一瞬だが激しく高まった感情も同じく初めて感じるものであった。ガイの中にその興奮が根付いた。

 パオが見えてくると、シェロは大声で歌を唄った。その歌につられ、パオから次々に人が出てきた。

「シェロが帰ってきたぞ。」

 誰からともなく同胞の帰郷を伝える声が上がり、手を振ってシェロはそれに応えた。

 シェビーダは相変わらず、元気そうだった。十年たっても外見が全く変わらない。むしろ長年患った眼病が治ってすっきりした顔つきになっていた。

「婆さん、帰ってきた。」

「見違えたぞよ。」

 シェビーダはシェロの顔を嬉しげに眺めた。既に中年と呼ばれる歳になっていても、やはり孫なのだ。義理よりも血縁を重んじるこの老婆には一層のことである。

 ガイはシェビーダの顔を眺め、ちょこちょこと近づいて母と同じ雰囲気を持つこの老婆の手をしっかりと握った。

「これは、、、マイの子じゃな。」 

 マイと同じ緑の目をしている。

「顔は父親似か。よう来たのう。」

 シェビーダは目を細めてガイの頭を撫でた。

「その子を、どう思う。」

 シェロの声が低くなった。シェビーダの第一印象が全てを占う。シェビーダの目が別人のように鋭くなった。シェロは緊張した。

 老いた祭礼占い師はしばらくガイの目を見つめ、ぎょっとしたように仰け反った。

「龍じゃ。」

「?」

「角があり、たてがみがある。」

 シェビーダは中空に視線を移してしばらく考えた。

「何が見えるんだ。教えてくれ。」

「まあ、そう急ぐな。せっかく戻った。ここで夏を過ごせばいい。」

 そんなにゆっくりとは出来ない、シェロは思わずその言葉を飲み込んだ。シェビーダの目がガイの目と同じ色に変わっている。

これはこの老婆の持つ能力の一つである。相手の意識が並外れて強い場合、肉体の一部を瞬間的に同調させてしまう。

「この子は眠っている。体は目覚めていても心はずっと眠ったままでいる。マイが側にいながら情けないのう。我が子大事のあまり、檻の中に押し込めてしまったとみえる。」

「なんとかなりそうか。」

「さて。まだ何とも言えんが、少なくとも、ここに連れてきたのは正解じゃよ。」

 

 

 

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