| 英明王の眉間に深い縦皺が刻まれている。 石造りの宮殿を、王の巨大な影が通り過ぎた。隆とした体躯、白いマントに金糸の刺繍が豪華だ。王に遅れまいと、何人もの大臣が小走りでついて行く。 「王よ、第二十三議会の議事録に目を通されましたか。」 王を見上げながら情報省の大臣が尋ねた。 英明王は巨人であった。この大臣もかなりの長身だったが、手を伸ばしても王の肩にさえ届かない。 王は素早く考えを巡らせた。 「その議事録は既に読み、検討した。しかし、第十九議会の緊急要請により国庫は空だ。」 英明王はバウド族特有の歯切れの良い口調で応えた。 情報省の大臣は眉をひそめた。 「昨年の破壊工作よって多数の粘土板を失いました。これほど忌まわしい出来事は他に例を見ません。失われた粘土板は新しく作成した写しでは補完できなかった。全ての格納庫から完全な写しを宮殿に吸い上げておくことは極めて重要なことと考えます。」 「承知しているが、現状では困難だ。」 ここ、アトシスでは人が死ぬとき、その生涯において何を成したかを一枚の粘土板に刻む習慣があった。どれほど昔にそのような習慣が生まれたのかはっきりしない。それらは墓の中や、厳重に密閉された洞穴に納められ、永く後世まで残った。 情報省の大臣はウゲットという。王の意見は尊重されねばならないが、ウゲットにとっても考え抜いた意見である。王の再考を求めずにはいられなかった。 「破壊工作は今後も続くことが予想されます。それがどれほど大きな損失を招くのかは想像もできません。」 「それを防止するのが君の任務だ。」 ウゲットは口ごもった。 アトシスは、大きく分けて、北方のトリア、中央のバウド、南方のシャパ、東方のカーグ、そして海を隔てたジェラの五つの民族からなる。勇猛にして優れた統率者であったバウド族の王、アトスは周辺の民族を剣と知恵によって平定し、自らの名をこの地の最初の統一国家に与えた。アトスは、古くからの習慣によって残されたこれらの粘土板を永く後世に残そうと考えた。粘土をこねて作った板には焼成処理が施されているが、放っておけば、いずれは崩壊してしまう。アトス王は古い粘土板を収集して堅牢な格納庫に保管し、当代の粘土板をも併せて収蔵していった。 このような「板」は、知恵の宝庫だった。古代の粘土板は忘れ去られた歴史を語り、真正の過去を貼り絵のように表現してみせた。特に、最古の粘土板には驚異の内容が記されている。これらは間違いなく宝であった。 歴代の王はアトスの築いた新しい王制を守り続け、粘土板格納庫の充実を図った。時代を重ねるごとにこれらの粘土板は膨大な数量となった。格納庫は各地方の行政単位ごとに建造され、辺境にも同様の格納庫がつくられていった。 ウゲットは粘土板の保全に危機感をつのらせた。 「国庫の補充ができれば、可能ですか。」 英明王はウゲットの質問に歩きながら答えた。 「もちろんだ。五年間待てば何とかなる。もしくは、どこからか二千万ベキルを都合するかだ。第二十三議会には五年の事業延期を勧告する。」 「わかりました。」 ウゲットは立ち止まり、壮麗な天井をふり仰いだ。議会は全部で二十三あり、第二十三議会はもっとも遅く王議会に加入したジェラ族唯一の議会である。 王は、すぐに他の大臣から次の質問を受け、それに答えながら廊下を歩いて行った。 「さて、どうしたものか。逆さに振っても二千万ベキルなどという金は出てこない。」 ウゲットは、実直で知られる大臣である。小心なまでに細部にこだわり、政策の運用は慎重すぎるほどだった。最も優勢なバウド族には十二の議会があり、トリアにも七つある。ジェラ族にたった一つしか議会がないのは、部族の人口が少ないせいばかりではない これらの議会では様々な問題を話し合い、法を制定し政策を決定する。王は議会に出席することはなく勧告、命令、承認または拒否という形で政策の総合的方針を定めてゆく。なお、王の決定は絶対である。ウゲットは、すでにかなり遠くを歩いている英明王の後ろ姿を眺めた。威風堂々とはこの姿のための言葉である。巨人の歩く姿には圧倒的な迫力があり、その姿を眺めているうちに強力な忠誠心がウゲットの心を満たしていった。 「紛糾するようなら議会を解散させよう。格納庫の保全は、情報省の総力をもって取り組む。」 ウゲットは議会を押し切る決意をした。 英明王は、その名をドウという。ドウ王の前王はバジリコ王であり任期は二十五歳から五十歳までであった。王は通常二十歳過ぎに即位し、まもなく継王候補、すなはち次の王の候補者を選定しておいて任務に当たる。ドウ王はバジリコ王の継王として二十年の研修期間を終え、先王が退位するときには王となるための十分な訓練を受けていた。 歴代の王のなかでもドウ王は抜きん出て有能だった。人格的迫力と鋭い頭脳、公正な態度は議会と国民から熱烈に歓迎された。 ドウ王が行った最も偉大な業績は、ごく限られた者しか立ち入ることの出来なかった粘土板の格納庫を簡便な技法を用いて一般に公開したことにある。重く壊れやすい粘土板を、そのまま公開することはできなかった。そこで、板の一枚一枚に墨を塗って紙に写し取り、それを誰もが閲覧できる制度を生み出したのである。これは、大変な大事業だった。膨大な労力と資材を必要とし、事業は苦難を極めた。粘土板はそれほど大量に保管されていた。 粘土板の公開はめざましい効果を顕した。技術情報の記された板を体系的に整理することで、様々な産業が急速に発展していった。この業績によって、ドウ王は英明王と呼ばれることになった、全ての議会がこの名誉ある呼称をドウ王に与えることとした。これはアトシスの王に対する最高の栄誉であり、百三十代を数える王の中でも極めて稀なことであった。 英明王は宮殿の中庭に出た。硬質の岩石を敷き詰めた回廊から広々とした草原に出ると、誰もが、ほっと息をついた。そこには常にさわやかな風が吹いている。中庭といっても小さな村ほどの広さがあり、自然の地形をそのまま取り入れているため、丘や森があり川まで流れている。王の宮殿は一つの都市であった。宮殿はいくつもの丘を覆い、今も増築が続いている。 宮殿には王を補佐する高官や祭事博士、祭礼占い師が住み、アトシスを統治するための中枢機関がある。さらにそれらの護衛者、医師、物売り、工人など様々な人々が住んでいた。また議員やその関係者も議会の開催時には仮の住まいとしていた。 英明王の統治によってアトシスは史上空前の繁栄を迎えていた。しかし、栄光に包まれたドウ王には強い焦燥感があった。それは、次の王の候補者が未だに現れないことにあった。 祭事省の大臣が王の側に立ち、英明王の分厚い胸板越しにその横顔を見上げた。名をカルバという、前王の候補者の一人でもあったので政府高官としてはかなりの高齢であった。カルバの白くなった長い髪を野を渡ってきた風が揺らした。風には、かすかに水と花のにおいがした。 「よい日でございますな。地も空も実に穏やかです。今年の作物は大いに実るでしょう。収穫祭は一段とにぎやかになりますぞ。何しろ王が即位して十五年という大きな節目に当たる年でもありますからな。」 他の大臣たちも野を渡ってきた風に吹かれて緊張感を緩めていたところだった。 「カルバ、継王候補者はまだ見つからないか。」 ドウ王の眉間のしわがさらに深くなり、大臣たちは一様に顔を曇らせた。 聞くまでもないことだった。もし継王の候補者が見つかれば、この忠実な老相は何をおいても一番に報告するはずだからである。 「遺憾ながら。」 「許せ、愚痴になった。」 カルバは年老い顔に柔らかな思いやりを見せていた。 「収穫祭について申し上げたのは、大々的な継王候補探しを同時に企画しているからなのです。この十五年、未だに候補者が見つからないのは異常としか言いようがない。そこで収穫祭にあわせて祭事省をあげての大法要を行います。祭礼に詳しい博士を国中から呼び集め、二歳から五歳の全ての子供たちを調査の対象にいたします。」 英明王はわずかに眉を開いた。 「初代アトス王から百三十代を数える。英明王と呼ばれながら、王位不在の期間はつくりたくない。歴史をみれば、そのような時期に大きな混乱が集中している。私の任期はできるだけ延ばしたとしてもあと二十年だ。それを過ぎれば、とても王としての激務に耐えられそうにない。また、継王の訓練期間が不足する。」 老相は深々と頷き、再び王を見上げた。カルバはかつて自分も王の候補者として選ばれた経験から、英明王の心境をもっとも正しく汲み取ることができた。王の責任は重大であった。王は常に百年先を見ていなければならない、継王の選出はその意味でも最も重要な仕事の一つであった。 継王はどのようにして選ばれるのか。 ある粘土板には以下のような記述が残っている。 祭礼占い師は、「北の村、ウスピナー湖、白い鳥」という三つの言葉を神託とした。この曖昧な預言は国中から三百人を越える継王候補者を呼び寄せることになった。各地方の祭事博士は、互いに譲らず継王を輩出するための争いを始めた。 呼び寄せた子供には、多くの優れた教師たちがよってたかって徹底的な教育を始める。愚王は間違っても生まれることはない、もともと賢い子供に厳重な教育がなされ、さらにその中から選抜が繰り返されるのである。祭事博士たちは王は作り上げるものなのだと考えている。ただし、それはあくまでも預言があってのことである。 十年前。 ある祭礼占い師が継王について奇妙な予言を残した。祭事博士がどちらかというと行政担当者に近いとするなら、祭礼占い師は神の言葉をつたえる真正の巫女であり、その言葉は祭事博士を沈黙させる。ときには祭礼占い師は王の権威をも凌ぐのだ。 「継王は学び終えてからラゾに来る。」(注 後述) ドウ王は、祭礼占い師の言葉に不満を覚えた。 「継王は選りすぐりの教師たちから学ばねばならない。ラゾ以外のどこで学ぶというのか。」 ドウ王が問いただすと、祭礼占い師は再び目を閉じた。 「海、草原、山、多くの場所。」 「誰に学ぶ。」 「あらゆる者。」 巫女は意識を神霊の住む場所まで押し上げていた。 「いつラゾに来るのか。」 「、、、見えぬ。」 「それでは何も分からないではないか。」 ドウ王は巫女を責めた。巫女は意識の手をさらに伸ばした。しかし、巫女の目が再び開かれることはなかった。祭礼占い師はこと切れていた。余りにもあっけなく、また意外であった。無理をして命の糸が切れたものか、他に理由があったのか、今もわからない。 これ以後、何人かの祭礼占い師が継王について占ったが何も得るところはなかった。また、王は作られるものだと考えている祭事博士たちにも継王に関するいっさいの神託がなくなってしまった。ラゾの祭事に関わる者たちが無能であるはずはなかった。祭事博士と認められるための厳正な試験にはいかなる妥協も入り込む余地がない。また、博士であり続けるための定期的な試験が行われる。王となるべき者に運命の糸というものが繋がっているとすれば、それがどこかで、もつれている。 カルバはいたわりの心を込めて王に進言した。 「王よ、予言はいまだにない。なぜかはわかりません、かくいう私も様々な予言をなしてきましたが、継王についてのみ何の心象も生じないのです。しかし、今も申し上げたとおり、国中の祭事博士が集まっての大法要によって必ずや継王候補者を見つけだします。」 「来月の収穫祭か。」 予言がないなら、国中の子供を調べ上げる。これはスマートではない。無理矢理にひねり出す感がある。数百万人もの子供たちを全て調べられるはずもない。祭事博士たちは多少の間違いをすることを天地に詫びるために大法要を行うのだ。 これはやむを得ないことだった。継王への訓練期間を確保するために、また英明王への負担を軽くするために今年中に行う必要があった。 中庭を渡る風向きが変わり、甘い花の香りを濃厚に運んできた。英明王はその香りを軽く吸い込んだ。 「もうひとつお知らせがあります。アリーがジェラスの議員としてラゾに来ているそうです。」 英明王は眉を開いた。眉間の皺が消え、カルバは久しぶりに王の笑みを見た。 「アリーが戻ったか。」 「二十年になります。」 「うむ。」 王は巨体を反らせて空を見上げた。 「アリーがラゾを去った日のことを思い出したよ。あの日からしばらくの間、こんなふうに良く晴れた日には、アリーも同じ空を見ている気がした。今では雲を見上げることも忘れていた。」 王は紺碧の空に浮かぶ羊雲を見つめた。 「今日にもアリー・ジェラを訪ねてみるつもりです。」 「さぞ喜ぶことだろう。カルバの教え子だったのだ。」 「はい、最も優れた生徒でした。そして王の友でもあった。」 英明王はカルバに視線を移した。 「私の所にも来るように伝えてくれ。」 「もちろんのことです。」 カルバと英明王の会話に、警護省の高官が割り込んできた。 「カルバ大臣。アリー・ジェラ議員に警護省にも足を運んでいただくようお話しください。」 この高官はトリア族の出身でセーバといった。カルバは、セーバの言葉にどこかひやりとしたものを感じ取った。 「それはなぜかね。」 「ジェラートの膨張は今やアトシス全体に大きな影響を及ぼしています。警護省としては何らかの規制を与える準備を始めており、アリー・ジェラ議員と前もって調整をしておきたいのです。」 「それは議会を通して行うべき事ではないのか。」 カルバはセーバの無表情な顔を白くなった長い眉毛の奥から見据えた。 「そうですか。もちろん、正規の手続きを怠るつもりはないのですが、、、それでは、議会に図ることにします。」 王は再び回廊の内部に戻っていった。 「では、これで。収穫祭の件、われらも期待します。」 セーバは、そう言い残して王のあとを追った。カルバはその後ろ姿に、何かしら不遜なものを感じた。このような感覚は初めてだった。側近は全て選りすぐりの人物が固めている。とくに、高官の人選は厳しい。カルバは意識を集中し、セーバの心に隠された何かを感じ取ろうとした。一瞬、曖昧な敵意を感じ、遠ざかっていくうちにその感覚は消えた。 「セーバか。」 カルバは白いあごひげに手を当てて呟いた。 アトシスには春夏秋冬の季節の他に八つの季節がある。基本となる四つの季節に、大小を冠して呼称する。もっとも暑い大夏にはたいてい雨も少なくなり、強い日差しと高温が耐え難いものとなる、反対に、大冬には何もかもが凍りついてしまう。 最古の粘土板に記述がある。これは、アトシスの空にもう一つの大きな月が現れたせいだという。海が荒れ狂い、大地が引き裂かれて地上の生き物の多くが死に絶えた後、気候の安定化が始まったとされている。二つの大きな月は相互の軌道のずれによって海流と海洋の潮汐にきわめて複雑な規則性と大きな変化を生じさせる。気候の変化をとらえることはここに住む人類にとって生存をかけた知的作業であり、大陸を大移動して厳しい季節をやり過ごす場所を探すことがアトシスの住人にとって基本的な行動原理となった。 アトシスは、生き残るために大陸を大移動する流浪の民の星であった。そのために、粘り強い体力と気質、複雑な暦を操る論理的な思考法を発達させることが求められた。 季節は小夏から大秋にむかっていた。収穫祭が終われば中央大陸の北半分が氷に閉ざされてしまう。英明王の時代には宮殿に住まう者は厳しい大冬の間、ラゾの中で過ごすという習慣が定着していた。王の宮殿をラゾという、これは過ごしやすい場所という意味である。 大冬の間、ラゾは暖かい場所を求めて移動してしまった民から取り残された状態になり継王の候補者探しも何ヶ月ものあいだ完全に休止することになる。忍耐強い英明王にしても大冬の前に継王についての何らかの良い知らせを欲することは当然のことであった。 カルバは、英明王の巨躯が回廊のなかに見えなくなるまで目で追い続けた。 「カルバ様。」 声のする方を振り返ると、長年カルバの護衛を務めるウルが跪いていた。歳を取ってもいまだに猛獣のしなやかさを感じさせ、歩いても走っても足音がしない。 「気がつかなかった。話を聞いたか。」 「はい。」 「来月には、いやが応にも継王の候補者が決まる。おそらく千人近い小さな子供たちがラゾを駆け回ることになる。にぎやかになるさ。おぬしも教育係に狩りだされるぞ。」 ウルは白いものの混じった眉毛を寄せた。 「この歳で小さな子供に剣技を教え込むなど、御免こうむります。私も寄る年波には勝てず、もはや昔のようには走れず、余人の目に見えぬほどに剣を振るうこともできません。」 「それは儂とて同じだ。先王と王位をかけて競った頃の頭は、とうに薄らぼやけてしまった。一日一日老いが儂を追い立てる。しかし、全てがそうでもない。祭事については霊感が異様に鋭くなったと感じることがある。事実、次の収穫祭で行う大法要には今から手応えを感じるのだ。十年前、王に予言を与えた祭礼占い師の境地を越えて見せよう。また、そうでなけれは継王を見つけだすことはできないのだ。」 ウルはカルバの表情に命を懸けた決意を見た。 「うらやましいですなあ。私には命の捨て場所がない。もう、いつでも良いのですが。」 ウルは心底、老いた祭事博士を羨んでいた。 「おぬしはまだ死ぬわけにはいくまい。それとも、おぬしの技を全て受け継いだ者が現れたのか。」 「はい。数年前にとった弟子がことのほか伸びて、ようやくミシュガット(注 後述)を受け継ぐものが現れました。」 「めでたい。」 「粘土板に、この生涯で成し遂げたこととして記される。そう思うと何かしら嬉しいのです。」 「剣技の一体系を器から器に注ぐように弟子に伝えること、それは、口で言うほど易しいことではない。剣技を重んじるアトシスにおいて、ウルの名は長く語り継がれるのだ。御主の粘土板を遥か後代において読む者がいよう。もしも、その者がミシュガットを受け継いでいたとしたら考えるだけでも楽しい。」 さまざまな場面に於いて、アトシスの民の好戦的な側面が顕れる。たとえば王位すらも親から子へと世襲によって自動的に継承されることがない。これは古代のアトシスに於いて初めて暦が編纂された時代に生じた習慣である。民が王を指導者として仰ぐためには民の要求に応えるだけの能力を持っていることが必要とされたのである。アトシスでは、暗愚な王はすぐに周囲のしかるべきものが排除してしまうことが当たり前のごとく起こった。厳しい気候の変化から逃れて渡り鳥のように地上を移動する集団は、命を託せる指導者を選択しなければならない。また、指導者となるべき者は、追従する者たちの安全を保障する義務の観念を発達させた。地位の上にあぐらをかくことは許されなかったのである。 アトシスの歴史は戦闘と呪術の歴史でもあった。戦闘術が発達したにもかかわらず、この好戦的の種族が自滅の道をたどらなかったのは独特な霊感を発達させたためである。霊能者は予兆を見て、未来を知る。祭事を司る者は予言と霊感を駆使して王制を支え、深く政治に関与することになった。また、アトシスの戦闘術は王政への敵対者を完璧に排除するための芸術家ともいえる戦士を生み出した。 ウルはアトシスの最高の剣技、ミシュガットを極めた戦士であった。 カルバは、ウルの腰に下げてある宝剣を見た。常に手入れがなされてあると見えて装飾金具の一つ一つに一点の曇りもない。 「ウルよ。」 言い終わらないうちに、カルバは二、三歩と離れていない老戦士の眉間に向けて親指大の護符を投げつけた。祭事大臣とて武術のたしなみがある。占いに用いる鉄製の符は十分に皮膚を突き破るだけの威力を伴っていた。 「お戯れを。」 ウルは何事もなかったかのように手に持った符をカルバに向かって差し出した。カルバの目には符を投げつけてから、老戦士が同じ符を差し出すまでの過程が見えなかった。 「許せ。」 「なんの、我らは常に試し、試されるのがならいです。カルバ様は幼少の頃より六十年にわたって試され続けてこられた。私から見れば、あまりにお気の毒です。」 大賢者カルバは軽く首を振った。 「そうでもない。儂は先王の候補者として三歳の時にラゾに招かれた、その後、比較的早い時期に候補者から外されたのだ。ちょうど十二歳の誕生日であった、王になるべき基礎教育はほぼ完了していた。だから、そのまま生まれ故郷に戻れば、自動的に地方の長官見習いぐらいになることはできた。だが、それも気が進まず、ぼんやりと時間を過ごすうちに儂の教師のひとりであった祭事博士の手伝いをすることになった。その博士にしてみれば王の候補者から外れて、ぶらぶらしている儂の姿を見かねたのだ。これが儂が祭事に関わる事になった本当のきっかけだ。その後、儂に祭事の能力が秘められていたことを知った。先王と儂は互いに信頼が厚かった、もちろん相応の努力はしたが先王はすぐに儂を祭事博士に引き上げた。儂などは割合に気楽なほうだ。在位の間、一瞬も気を抜かず常に最高の存在として試され続ける王と比べればどれだけ気楽な稼業がわからん。」 「そのような話は初めて聞きます。」 「うむ、滅多に人に語ったことはない。儂は長く祭事博士をつとめ、歳を取ってから大臣の地位についた。ドウ王から指名されることになったのは意外であった。儂に代わって祭事大臣を務めるべき博士は沢山いる。王が許せば何時でも大臣の重責から解放される。その点が気楽なのだ。」 ウルはカルバの表情から視線をはずさなかった。カルバは淡々とした口調とは裏腹に深い思いを秘めていた。ウルにはそれがよく分かっていた。 「ウル、ラゾの大掃除をしなければならん。姦賊の一掃だ。御主には死んでもらうことになるやも知れん。」 猛禽を連想させるウルの顔に嬉しげな笑みが広がった。 「死に場所を与えていただけるのか。死にますぞ。いつでも。」 ウルは心から喜んだと見えて、さらに言葉を続けた。これは寡黙な老戦士には珍しいことだった。 「若い頃のように、速く剣を振るうことはできません。それは今も申し上げたとおりです。しかし、カルバ様と同様、老いて良くなった感覚が一つありましてな。相手の機先が、青い光となって実際の攻撃の前に見えるようになりました。私はただそれを避け、がらあきになったところに剣を、すうっと差し込むだけでいい。神速を持った剣士なら剣を返して私の首をはねるでしょうが、悪くて相打ち、そうでなければこの老いぼれの勝ちとなります。」 「こわい老いぼれだな。」 カルバは老戦士の話を聞きながら足下の草に実った赤い果実を摘んだ。草苺である、苦くて食べられたものではない。カルバは二つ三つちぎって、目の前の堀にその実を放り込んだ。 ウルは何気なく水面に浮かんだ赤い実を見ていた。すると一抱えもありそうな青い斑点を持つ魚が、水中深くからあがってきて、ぱくりとその実を食べた。 「おう、こんなところにあれほどの大魚が棲んでいるとは。」 魚は水面からじっとカルバを見上げ、もっとくれと言った風に口をぱくぱくさせた。カルバは実に満足そうに頷き、さらに五、六個をもいで堀に投げ入れた。魚はそれらを次々に飲み込んで再び水中に消えていった。 「おもしろいですな。あのようなものがいたとは知らなかった。」 「しっ。」 カルバは口に人指し指をあてた。堀に近づき、その縁にしゃがんで静かに待った。水はかすかに緑色を呈しており、人の背丈ほどまでは見透せるのだがそれより奥は見えない。この堀はもともと大地の割れ目に水が流れ込んだ場所である。そこに石垣を組んで水路としているので実際どれほどの深さがあるのかわからない。 ほどなくさっきの大きな魚が口にこぶし大の丸く白っぽいものをくわえて戻ってきた。「ぶっ」という音と水しぶきともにその丸いものが堀の石組みの上に転がった。柔らかいとみえて魚の歯形がくっきりと残っている。ウルは興味津々で見つめていた。 カルバはその丸いものを掴みあげ、ぱりっと音をたててかぶりついた。あたりに甘い芳香が漂った。青い斑点の大魚はカルバが実を食べるのを見届けてから水中に没した。 「なんと、魚が。」 ウルはカルバの囓ったものを見せてくれと頼んだ。物知りのウルは、およそ動植物については博識だった。今の魚はラミルという名の珍魚だ。おそろしく長命であることが知られている。しかし、丸い実のようなものには心当たりがなかった。 「儂に餌をくれているつもりなのかもしれん。」 ウルはそれが何かの水草の果実であると推察した。完全な球形で表皮は白に近い緑色をしている。果肉は乳のように白い。ウルは、是非にとそれをもらい受けた。そっと噛んでみると花のような香りとどこか懐かしい甘い味がした。 「うまい。初めて食しますが、昔、どこかで食べたことのあるような味がします。」 「そうであろう。」 「もう一つというわけには参りませんか。」 「何度か試したが、一度に一つしか持ってこない。」 「ほう。」 ウルは鷹のような顔に人なつっこい笑みを浮かべた。 「もう、ふた月ほど前のことだ。儂が何気なくここに座っていたとき、あれが水中から大きな頭を覗かせて草苺を眺めているのに気がついた。儂にはあの魚が何とかして食べてみたいと考えているのがわかった。いくつか投げてやるとちょうど今のようにうまそうに食べ、そのあと、その実を放ってよこした。」 「この実は何の実でしょうな。」 「中に小指の先ほどの種がある、持ち帰っておくがいい。薬売りに見せれば、びっくりするほどの高値で引き取ってくれる。」 ウルは果肉を平らげ、手のひらに卵形の黒い種をぷっと吐き出した。その種には見覚えがあった。 「なんと、水仙果の種。この種は知っている。しかし生の実は初めて見、また、食しました。お礼を申し上げるべきでしょうな。」 「すりつぶして飲めば、種一つにつき一歳ずつ若返るという。もう十あまり貯まった。真実若返る訳ではないが、元気になることは確かだ。王にこの話をして差し上げようとしたら、おまえが飲めとおっしゃった。儂はいらん。欲しければまとめて御主にやろう。」 「私はこのままで結構でございます。ただこの一粒はいただいておきます。傷に塗りつければ化膿しないと聞きますからな。」 ウルは水仙果の種を腰のポシェットの中へ丁寧にしまい込んだ。 短い夏の終わりを予感させる涼しい風が吹いた。カルバとウルはひとときの楽しい時間が過ぎていったことを感じた。 「ウルよ、セーバを探り、不穏な動きを見せたら御主の判断で斬れ。責任は儂が取る。奴の警護は固い。決して犬死にするな。」 老戦士の鷹のような顔が一瞬で引き締まり、鋭い眼が光を放った。戦いが始まる。 「承知。」 |