| 七村メモ |
| 松原 擬宝珠に鯱がついているため、 ひとめでわかる |
| 八家 露盤のピンとのびた龍の角が美しい 練り上手で有名 |
| 妻鹿 高欄掛けには、妻鹿ゆかりの武将を配している 一番大きな屋台で 練り上げ方が特徴 平成20年屋台新調 |
| 東山 擬宝珠の上部は純銀、下部は金メッキの上に 金銀の千鳥を配している。 |
| 宇佐崎 大きく凝った四神の彫り物の露盤には圧倒される 太鼓の響きは随一、この太鼓は木場と同じ木を くりぬいて作った |
| 木場 幕の部分の綱が特徴的 現在のまつりの形態は木場が発祥らしい |
| 中村 平成15年屋台完成 |
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| 祭神 中殿 品陀和気命 [ ほんだわけのみこと ] ( 応神天皇 ) 左殿 息長足姫命 [ おきながたらしひめのみこと ]( 神功皇后 ) 右殿 比淘蜷_ [ ひめおおかみ ] (三女神) 社記によれば天平宝字7年(763年)豊前宇佐より白雲が東方にたなびき、毎夜松原の沖合で光り 輝くものがあり、国司は妻鹿の漁民久津理に命じて、 網を入れさせ「宇佐第二垂跡八幡大菩薩」と書 かれた霊木を得、妻鹿の港の大岩の上に祀ったが、 やがて現在の御旅山山頂に社殿をお祀りしたと いう。その後神のお告げで、 現在の地に粟のように松が生じ、そこに連座され、社殿を創建し「粟生( おう)の松原」と呼ばれた清らかな松林のなかに宇佐第二垂跡の八幡宮として栄えた。 その跡嵯峨天皇の勅願社となり、中世においては源氏を中心とした氏神として千石千貫を領し、赤 松円心の庇護する多数の僧兵をかかえた神社となった。そのため、 応仁の乱では山名氏により社殿 は焼失されたが、赤松政則により再建された。氏子中は喜びに沸き米数百俵を御旅山山頂の社殿前 に積み上げたといわれており、現在の灘まつりの屋台はこれを契機として作られたともいわれている。 天正の始め秀吉の三木城攻めの際、毛利氏によって再び消失され、また秀吉の怒りにもあい社領 は六十石に削られたが黒田官兵衛孝高の援助を得て社僧快祐が復興した。 近世以降は八正寺が別当寺として社務を執行し、絵馬殿に見られるような祭礼が厳然と行われてい たが、明治以降は神仏分離により松原八幡神社として氏子7村の氏神として現在に至っている。 (姫路市教育委員会の案内板より) |
| 神社案内 |
| 10月 14.15日 |
| 祭礼日 |
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| 7つの村に分かれている。(東山、木場、松原、中村、妻鹿、宇佐崎、八家) 宵宮は各村が村練りを行った後、神社に参拝する。その後、宮前にて屋台の練り合わせが行われる。 3台4台の練り合わせは当然あり、タイミングしだいでは7台の練り合わせも見られる。 本宮は7村が交代で練り番となり、その村が中心となって、まつりが行われる。 練り番の村は早朝決まった場所で塩カキの儀で体を清める。そして神社へ出向き拝殿と宮前の鳥居の間 を塩カキで3回往復した後、3台の神輿を拝殿から出し練り合わせを行う。神輿にはそれぞれ神が載ってお られ、激しくぶつかるほど喜ばれるとゆわれている。これは神功皇后が三韓出兵の際に、風待ちに停泊し た福泊の浦で、軍船が船に付いたフジツボなどの貝を、船をこすり合わせる事により落とした事を模したも のであるともされてい る。この情景があまりにも激しいため「灘のけんかまつり」で有名である。 神輿の練り合わせが収まると、神官と共に神輿屋台が行列をつくり、御旅所へ向かう。御旅所下の練り 畑には、松原の「露払」が先に入り、場を清める。この「露払」は厄年の男たちが太鼓に合わせて囃子を歌 い充分に練ったあと地面に横倒しに落とす。しかしどんなに激しく落ちても、太鼓の音が止まる事はない。 そしてこの太鼓の音は「日本の音百景」にも記されている。 その後神輿の練り合わせがおこなわれ、次に屋台の練り合わせが行われる。屋台は長く担いでいた方 が勝ちとされ、勝った方は屋台をガブッて喜びを表現する。このガブリがきれいだと観衆からは大拍手で ある。 屋台は次々と御旅所へ上がって行き、御旅所で揃ってからお祓いを受け、そして再び山を下り村へと向 かう。山を下りる頃には暗くなるため、屋台は電飾や提灯で彩られる。 |
| 神社 山陽電鉄「白浜の宮」駅より南へ5分 御旅所 神社より松原村中を通って西へ15分 御旅山山上 |
| 本宮における練り畑での見物は、桟敷が有料であるため、道路での見物となり危険な場合もあります。 あくまで氏子のまつりであることを理解しましょう。 練り畑を出たあと、屋台は村へ帰るのですが、最近は妻鹿の方へ送る様に向かうのも哀愁があります。 平成18年兵庫県指定 重要無形民族文化財に指定されました |
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| 特徴 |
| 拝殿に奉納された各村の太鼓バチ |
| メモ |